- 出版社:新潮社
- 発売日:1978/4/1
- 著 者:森茉莉
著者の創作の舞台裏である愛猫とふたり(?)の珍妙なアパート暮しのようすを軽妙な筆致で、自由に綴る批評的自画像。見かけだけ贅沢で、実は、内容の寒々としている現代風の生活に、侮蔑をなげつけながら、奔放豪華な夢を描く連作長編「贅沢貧乏」。ほかに、著者の目にうつる文壇をその鋭い洞察力で捉え、パロディ化した「降誕祭パアティー」「文壇紳士たちと魔利」など全5編を収録。
新潮社 書籍情報
本の内容
- 贅沢貧乏 (昭和35年6月〜38年2月)
I 贅沢貧乏
II 紅い空の朝から……
III 黒猫ジュリエットの話
IV マリアはマリア - 青い栗 (昭和36年6月)
- 気違いマリア (昭和42年12月)
- 降誕祭パアティー (昭和39年5月)
- 文壇紳士たちと魔利 (昭和42年9月)
お嬢様育ちの森鴎外の娘
軍医(陸軍中将)であり文学者として著名な森鴎外の長女。鴎外に溺愛されお姫様然として召使いに世話をされて少女時代を送った彼女。離婚を経て鴎外没後は,一人,世田谷の安アパートで暮らしていた。
見かけは変な婆さん。しかし,育ちの良い彼女の心は少女のままで純真だ。
貧乏といえど,好きなものに囲まれ好きな物を愛でて好きなように暮らすこだわりは完璧だった。こだわること以外は一切気にしない気質も完璧だった。
国文学者の島内裕子博士は,森茉莉のことを「清少納言以来1000年に一度の随筆家」と評しておられる。
彼女の奔放な筆は確かに比類ない個性を放っている。
愛する身のまわりの雑貨たちの描写は秀逸だ。
アネモオヌの色は、魔利を古い時代の西欧の家に 誘ってゆき、花の向うの銀色の鍋、ヴェルモットの空壜の薄青、葡萄酒の壜の薄白い透明、白い陶器の花瓶の縁に止まってチラチラと燃えている灯火の滴、それらの色は夢よりも弱く、幻よりも薄い、色というものの影のようにさえ、思われる。魔利は陶然となり、文章を書くことも倦くなってしまうのだ。
贅沢貧乏 I 贅沢貧乏
悪びれぬ風刺
どんな暮らしをしていようと御令嬢であり続けた彼女は,例えば同じアパートに住む主婦の女性たちに,全くもって,ほんの雀の涙ほどの共感も持てないし,彼女たちを心底つまらないと思っている。
それを隠そうともせず悪びれもせず書いた文章は,なかなか小気味よい。スカッとした気分になる。
森茉莉本人の価値観は,ここにどこまで投影されているのか。
その通りの人物であったようにも見聞きするが,ともかくそういう自分をメタな視点から冷静に分析し,牟礼魔利(むれまりあ)なる人物に投影して客観的に書いている。これだけ自分を高みに置いて「庶民」を愚弄しているというのに嫌味を感じないのは,だからだろうか。
大体牟礼魔利や野原野枝実は馬鹿かも知れないが愉快な人間なのである。日本では愉快な人間というものを解さない。人間は制服を着たように同じでなくてはいけなくて、又実に皆よく似ている。アパルトマンの主婦たちを見ると、頭の中も髪の縮れかたも、スカアトも、同じで、「お暑くなりました」「よく降ります」「寒くなると心細いわねえ」「お菜が高いわねえ」「お宅じゃお餅黴びない?」「もうお花が咲くわねえ」これが毎年毎年、一言半句も違わない。子供を見れば「可愛いわねえ」と言い、言われた方は「きかないんですよ」と答える。
贅沢貧乏 III 黒猫ジュリエットの話
又不思議なのは、十人が十人、二十人が二十人、銭湯にくる女の入浴の仕方が、顔の洗いかたから足の踵の洗い方まで、全部が、相談したように同じなことである。これはマリアが、白雲荘に住んでみて判ったことだが、彼ら庶民というのは朝起きるから、夜寝るまでの生活が万事、一人の例外もなく同じであり、考えることも同じ、従って話題も全員全く同じで、かくて元旦の夜明けから大晦日の鐘の鳴るまで、一年間、すべて同じに行動するのであって、その一年は又次の一年と勿論同じであるから、つまりはかれら庶民はすべて同じの一生を送るのである。
気違いマリア
何だかんだと言っても,世間に大いに興味を抱いて雑誌という雑誌を熟読し多くの有名人の生活を把握しまくっていた彼女は鋭い観察眼を持っていた。
下の一文など今の日本人に対して言ってもそのまま通用する。思わず笑ってしまった。
令和の現代でも,用語を詰めた日常語は日々止めどなく生まれている。挙げ始めたら切りがなく,日本語の日常的単語はほとんど略語に置き換わりつつあるのではと思うほどだ。
リストラ? 花金? 合コン? シャーペン? イケメン? リケジョ? バエ? JK? とりま? タイパ? り?!…そういう単語を見聞きするたびに何でも短くすれば良いと思っているのではと私自身よく思う。
そうか,宇宙時代のめまぐるしさに間に合うためだったのか。
= いつからキリスト教信者がキリスト者になったのか、日本人はすべての用語を詰めることで、宇宙時代のめまぐるしさに間に合うと信じているらしい =
文壇紳士たちと魔利
独特の感性で周囲を眺め,それを遠慮なき筆で書き綴る。
今時使われない漢字や単語が多出し,やたら長い説明の括弧書きが多く,時に何の話だったか見失うほど読みにくくもあるが,それでも突拍子もない世界への興味から不思議と目が離せぬ。
アララギ派と浪漫派に分かれた文壇をまとめようと尽力した鴎外の娘ということもあってか,森茉莉は文壇での顔が広かったようで(人の顔は覚えられないようだが)昭和前半に活躍した作家たちが本名や偽名で登場する。
中でも室生犀星への愛情がひときわ印象的で,犀星の作品を続けて読み始めたくなる書き終わりであった。
何故犀星は、他の人間と同じに、精神と肉体との死を、不思議な、美しい生命の停止を、迎えなくてはならなかったのだろう。つねに決して深刻にならない魔利を、どこか大真面目に、深刻らしくしてしまうのは、永遠に美を書かなくてはいけない、犀星の死である。
文壇紳士たちと魔利
文壇の人々
当代の多くの作家のことが仮名や実名で書かれていた。
この書籍は長い期間に書かれた作品の寄せ集めなので,書き始めの頃はまだ室生犀星が存命していたからだろうか,室生犀星は前半は甍平四郎という名前で,後半は本名で登場する。
自分自身のことは終始,牟礼魔利(むれまりあ)としているし,親交の深かった萩原朔太郎の娘,萩原葉子のことは野原野枝実と記している。
吉行淳之介や北杜夫などは漢字を変えてあったり,そのままだったり。
誰が誰だか文壇に詳しい方なら分かるだろうが,それを分かりやすくまとめたサイトなどは見つけられなかった。どなたか解説して下さらぬものか。
特定できたのは下記五名。
- 牟礼魔利 森茉莉
- 甍平四郎 室生犀星
- 真島与志之 三島由紀夫
- 野原洋之介 萩原朔太郎
- 野原野枝実 萩原葉子
魔利を書いた本
群ようこが森茉莉のことを書いた本があることを知った。
合わせて読んでみると森茉莉の世界が見えてきそうである。
- 出版社:KADOKAWA
- 発売日:2001/12/14
- 著 者:群ようこ
昭和62年、安アパートの自室でゴミの山に埋もれて孤高の死を遂げた作家森茉莉。父森鴎外に溺愛された贅沢な少女時代。結婚、渡仏、離婚などを経て自立。54歳で作家となり、独得の耽美な小説世界を発表した後半生の貧乏ぐらし―。「精神の贅沢」を希求し続けた84年の生涯の頑なで豊かな生き方を、人気作家群ようこが憧れとため息をもってたどっていく全く新しいタイプの人物エッセイ。 –
「BOOK」データベースより