老人と海

本の概要

  • 出版社:新潮社(新潮文庫)
  • 著者:ヘミングウェイ 訳者:福田恆存(ふくだつねあり)
  • 発行:昭和41年6月15日 (昭和62年5月25日 62刷)

キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。四日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰路サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく……。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作。

『老人と海』裏表紙紹介

何が面白いのか?

 この世界的名著とされる作品を,人生も老年期が近づきつつある今になって初めて読んでみる気になった。高校生の読書感想文の課題図書などに挙げられる本書のことは当然昔から知っていたし,手に取って読んだ友人から話を聞いたりもしたが,一様に「退屈」「つまらない」「何で名作なのか分からない」といった感想を漏らすため,わざわざ読もうと思えなかったのだ。

 だが,ふと「この年齢になった私なら退屈と思わないかもしれない」という考えが過り,試してみたくなった。


海のことを考えるばあい、老人はいつもラ・マルということばを思いうかべた。それは、愛情をこめて海を呼ぶときに、この地方の人々が口にするスペイン語だった。海を愛するものも、ときにはそれを悪しざまにののしることもある。が、そのときすら、海が女性であるという感じはかれらの語調から失われたためしがない。もっとも、若い漁師たちのあるもの、釣綱につける浮きのかわりにブイを使ったり、鮫の肝臓で大もうけした金でモーターボートを買いこんだりする連中は、海をエル・マルというふうに男性あつかいしている。かれらにとって、海は闘争の相手であり、仕事場であり、あるいは敵でさえあった。しかし、老人はいつも海を女性と考えていた。それは大きな恵みを、ときには与え、ときにはお預けにするなにものかだ。たとえ荒々しくふるまい、禍いをもたらすことがあったとしても、それは海みずからどうにもしようのないことじゃないか。月が海を支配しているんだ、それが人間の女たちを支配するおうに。老人はそう考えている。

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

 背表紙の説明にもあるように,舞台はキューバの首都ハバナのコヒマル地区。

 長い間漁師として暮らしてきた老人(サンチャゴ)だが,84日も魚が捕れない日が続いていた。最初の40日は少年(マノーリン)と一緒だったが,不漁が続いたためマノーリンの親が少年に別の舟に乗るよう言いつけたため,その後老人は一人で漁に出ていた。マノーリンはサンチャゴを尊敬しており慕っていたが,親に逆らうことはできない。

 不漁続き85日目のその日,一人で沖へ出た彼の網に大きなマカジキがかかった。老人は経験の全てを総動員して空と海を読み,その魚を得るために全力を注ぐ。3日もの間,少量の食べ物と水だけで体を保ち,眠りもせずに魚と共に海を漂う。

 3日間も一人で海と海の底の魚を相手に様々なことを考え独白するサンチャゴ。そのうちにサンチャゴの中には彼を振り回している大魚に対する兄弟のような尊敬や愛情の心が芽生えてくる。愛し尊敬しても彼は魚を殺さなければならない。彼は漁師なのだから。


あれ一匹で、ずいぶん大勢の人間が腹を肥やせるものなあ、とかれは思う。けれど、その人間たちにあいつを食う値打ちがあるだろうか? あるものか。もちろん、そんな値打ちはありゃしない。あの堂々としたふるまい、あの威厳、あいつを食う値打ちのある人間なんて、ひとりだっているものか。

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

 彼は全身に傷を負いつつも遂に勝利を手にするが,帰路で鮫に襲われ全てを失った。
 あの美しく威厳があった,そして彼が兄弟のように愛した大きなマカジキが次々と現れる鮫たちに食いちぎられていく中で,サンチャゴは心から後悔をする。


「これが夢だったらよかった。釣れないほうがよかったんだよ。こいつにはすまないことをしたなあ。釣りあげたのがまちがいのもとだ」

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

「こんなに遠出をする手はなかったんだよ」老人は魚に話しかけた、「お前にとっても、おれにとっても、意味なかった。本当にすまないなあ」

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

 海の上での3日間の彼の言葉の端々に,彼の海についての知識の深さが窺える。
 だがそれでもサンチャゴは鮫に敗北するしかなかったのだ。そこには知恵と気力で大魚に勝利した老人にさえも,どうにもできない大自然への畏敬が感じられる。

 サンチャゴを慕い心配していた少年(マノーリン)に,またとない大きなマカジキの嘴を譲れたことがサンチャゴの得た勲章ではないだろうか。


自然の一部である人間

 文学を専門にする方々の評価などは知らないし,特に興味も持っていない。
 この作品の名作たる理由などもよくわからない。

 だが,退屈でつまらないとは思わなかった。3日間一人で大自然の厳しさと正面から向き合っていた老人の語りは,地球の営みや生命の力強さと儚さについて考える哲学の世界だった。


「鳥ってやつはおれたちより辛い生活をおくっている、泥棒鳥はべつだがな、それに、でかくて強いやつはべつだ。けれど、なんだって、海燕みたいな、ひよわで、きゃしゃな鳥を造ったんだろう、この残酷な海にさ? なるほど海はやさしくて、とてもきれいだ。だが、残酷にだってなれる、そうだ、急にそうなるんだ。それなのに、悲しい小さな声をたてながら、水をかすめて餌をあさりまわるあの小鳥たちは、あんまりひよわに造られすぎているというもんだ」

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

 この物語の主題は老いの悲哀であるとか,全ては老人の夢落ちであるとか,様々な意見があるようだが,私が感じたのは,貿易風や海流を創り出す地球の大自然の中で等しい存在として生きて死ぬ人間と魚や鳥の営みの哀しさと力強さだった。
 夢落ちって線はないだろうと思う。

 一つだけ疑問に思うのは,こんなにも海に詳しいサンチャゴなら鮫が襲ってくるであろうことなど大魚を仕留める以前に気がつく筈だろうに?ということだ。大魚と出会った時点で彼の思考は非日常の世界に填まり込んで,そのようなことを思い付く余地が消えてしまったのだろうか。

 年を取って読み返すほどに感じることが増えていく作品なのかもしれない。
 それゆえに,高校生の時分に「つまらない」という感想を持っておくことにも価値がある作品なのではないかと思った。


堕落論・続堕落論

本の概要

  • 堕落論
  • 著者 坂口安吾
  • 青空文庫(kindle版 2012/9/13)
  • 本の長さ 13ページ

昭和初期に活躍した「無頼派」の代表的作家である坂口安吾の評論。初出は「新潮」[1946(昭和21)年]。「日本文化史観」や「教祖の文学」と並ぶ、安吾の代表的評論。「半年のうちに世相は変った」という有名な書き出しを枕に、戦後直後の日本人が自らの本質をかえりみるためには、「堕落」こそが必要だ、と説いたことで世間を賑わせた。現在も賛否両論を集める、過激な評論作品。

本の説明より

 終戦翌年に書かれた本。

 戦争中に堕落はなかった,と著者は言う。
 戦争は驚くほどの理想郷で,無心でいられ虚しい美しさが咲きあふれ,充満していた。だがそれは人間が本来あるべき美しさではない。戦争に負け,今や堕落が可能になった。
 堕ちる道を堕ちきることによって人は自分自身を発見し,救うことができる。堕落が母胎となり,人性が,人間が誕生するのだと。

 生きて落ち続けるという手順は,真に人間を救い得る便利な近道なのだ。


日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。

堕落論

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

堕落論


  • 続堕落論
  • 著者 坂口安吾
  • 青空文庫(Kindle版 2012/9/13)
  • 本の長さ 14ページ

昭和初期に活躍した「無頼派」の代表的作家である坂口安吾の評論作品。初出は「文学季刊」[1946(昭和21)年]。共同体的な規範から逃れ「堕落」する姿勢こそ、戦後日本人に必要な姿勢だと説いた代表作「堕落論」の続編として記された。「堕落論」で多用された警句的表現をより分かりやすく整え、「堕落」のもたらす意義をより直接的に説いた。

本の説明より

 著者は,まず日本の耐乏精神を強烈に批判する。


農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。 乏しきに耐える精神などがなんで美徳であるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起り、文化が起り、進歩というものが行われてくるのである。

続堕落論

ボタン一つ押し、ハンドルを廻すだけですむことを、一日中エイエイ苦労して、汗の結晶だの勤労のよろこびなどと、馬鹿げた話である。しかも日本全体が、日本の根柢そのものが、かくの如く馬鹿げきっているのだ。

続堕落論

  乏しさに耐える精神など美徳ではない,必要は発明の母,必要を求めるところに進歩が起こるのだと著者は説く。人性の正しい姿とは,欲するを素直に欲し厭な物を厭だと言うただそれだけのことであるのだと。
 まずは己れをタブーから解き放ち,自らの真実の声をもとめ地獄へ 堕ちよ!

 堕落は悪いにきまっているが元手をかけずに本物を掴むことなどできないのだ。
 堕落すべき時に真っ逆さまに堕ちねばならない。堕落には孤独という偉大な実相がある。

 人は無限に堕ちきれるほど強くはなく,必ず落下をくいとめずにいられなくなり,進んでいく。堕落こそ制度の母胎なのである。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人 曠野 を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。

続堕落論