玉川上水を歩く (38) 小金井橋

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

1日目は2019年2月18日。四谷大木戸を出発し、
玉川上水暗渠の上の緑道を笹塚まで歩いた。

2日目の2019年3月20日は、前回の終点、
新宿区笹塚「南ドンドン橋」を出発。
杉並区久我山の「岩崎橋」まで。

3日目の2019年3月24日は、
岩崎橋を出発、三鷹駅前の三鷹橋まで。

4日目の2019年3月31日は、
三鷹駅を出発、桜を見ながら小金井橋まで歩いた。

この記事では、
4日目の終点、小金井橋周辺の写真を載せた。

この記事に載せた写真の位置を青丸で囲んで示した。地図はクリックすると拡大して見られる。

三鷹市から小金井市の玉川上水はほぼ東西に流れ、
玉川上水の北は五日市街道、南が上水桜通り。
上水桜通りを下流側から歩いて、
行く手に小金井橋が見えてきた。
手前にベンチ、その向こうに水神の祠、
そして旧小金井橋のモニュメントが並んでいる。

手前からベンチ・水神・旧小金井橋要石モニュメント・小金井橋が見えている。
思いっきり壊れているが風情がある木製ベンチ
水神
水神

   水神(すいじん)
かつて此の場所に、江戸時代に建てられた水神社があります。
小金井橋の花見風景を描いた、江戸時代の絵画や明治時代の文献にも水神社の祠が見られます。
此の水神は、玉川上水と小金井橋の安全とともに地域の繁栄を願って建設されたもので、長く地元の人達によって、大切に守られて来ました。
しかし、いつしか水神の祠は果て、台座を残すだけになってしまいました、そこで此の度、地元の有志達がこの場所に復元したものですが、現在市では、水神の文化的価値と保存方法について、検討を進めているところです。
   小金井市教育委員会

小金井市教育委員会による水神の説明板
水神横から見た小金井橋と玉川上水
旧小金井橋モニュメントと水神
小金井橋の移り変わり
初代歌川広重「小金井橋夕照」 木橋(江戸時代・天保8年頃)
小川一眞撮影写真帳より 石橋
小金井市観桜絵葉書より レンガ造アーチ橋(昭和5年頃)
要石について

   要石について
要石はアーチの中央部にある石です。要石を最後に備え付けるとアーチが完成することから、アーチ完成の記念すべき大事な石であるといえます。要石は、楔石(くさびいし)、拱頂石(きょうちょうせき)、冠頂石(かんちょうせき)、キーストーンとも呼ばれます。

小金井橋の説明板
旧小金井橋の要石
小金井橋の説明板

   小金井橋
 小金井橋の歴史は古く、承応(じょうおう)二年(一六五三)、玉川上水が開かれた時に架けられたものと思われます。
やがて小金井堤が桜の名所となると「金井(こがねい)橋」・「黄金井(こがねい)橋」・「金橋(きんきょう)」などとも呼ばれ、歌川広重らが錦絵や挿絵に描きました。安政三年(一八五六)に木橋から石橋に架け替えられ、明治時代以降も名勝の中心として多くの写真や絵画にその面影を見ることができます。明治三年(一八七〇)から五年にかけて玉川上水に通船(つうせん)が行われ、その時の船溜(ふなだまり)が小金井橋の上流左岸にありました。
 小金井橋は、昭和五年(一九三〇)に近代的なレンガ造のアーチ橋に架け替えられ、小金井桜とともに地域のシンボルとして親しまれてきましたが、平成二十年(二〇〇八)、都道拡幅によりレンガ橋はその役割を終えました。
 このレンガと要石(かなめいし)は、旧小金井橋の一部を記念に残したものです。
平成二十三年八月
   小金井市教育委員会
   小平市教育委員会

小金井橋の説明板

平成20年、2008年に架け替えられた現在の小金井橋。
玉川上水に沿って走る五日市街道(都道7号線)と上水桜通りが
小金井街道(都道15号線)と交わる交差点だ。

小金井橋(小金井市側)
小金井橋から下流方面を眺める
小金井橋と小金井街道

小金井橋と玉川上水は小金井市と小平市の市境になっており、
小金井橋の北西角は小平市になる。
下は小平市側の親柱。照明が埋め込まれている。

小金井橋(小平市側)

小金井橋の北西角のすぐ横に、
名勝小金井櫻の碑と説明板があった。

名勝小金井櫻の碑(小平市)
名勝 小金井(サクラ)の説明板(小平市)
名勝 小金井(サクラ)説明板の拡大 (1)
名勝 小金井(サクラ)説明板の拡大 (2)

   名勝 小金井(サクラ)
 小金井堤の桜は、元文(げんぶん)二年(一七三七)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたものです。これは、新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。
 植樹されておよそ六十年後の寛政九年(一七九七)、多摩地域(現東大和市)出身の漢学者大久保狭南(きょうなん)が『武蔵野八景』の一つとして世に紹介すると、江戸からの花見客が増え、佐藤一斎『小金井橋観桜記』や大田南畝(おおたなんぼ)『調布日記』など文人による紀行文等に登場するようになりました。特に初代歌川広重が描いた「江戸近郊八景之内小金井橋夕照(せきしょう)」などによって富士山を背景とし、玉川上水に映える桜並木の風景が有名になりました。天保十五年(一八四四)の将軍世子(せいし)(のちの十三代将軍家定)の観桜を契機に、幕府の命により近隣村々によって大規模な補植が行われ、桜並木の景観が整いました。
 明治十六年(一八八三)には、明治天皇が騎馬で行幸されるなど、関東第一の桜の名所として、西の吉野と並び称され、明治二十二年(一八八九)四月十一日、甲武鉄道が開通すると、いっそう多くの花見客で賑わいました。
 小金井堤の桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど一本一本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地として、大正十三年(一九二四)十二月九日「史跡名勝天然記念物保存法」により、吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。この名勝指定には、小平村・小金井村・保谷村・武蔵野村の村長等を中心として大正二年(一九一三)に設立された「小金井保桜(ほぞう)会」による官民一体となった保存活動が大きく寄与しました。
 戦後、名勝小金井(サクラ)は、樹木の老化や周辺の都市化などによって年々衰えましたが、平成十五年(二〇〇三)八月二十七日に玉川上水が史跡に指定されたことを契機に、東京都・地元自治体・市民団代の協働により、吉野や桜川等の系譜を引き継ぐ山桜の苗が補植され、名勝小金井の桜並木の再生・復活が図られます。
平成二十三年八月
    小平市教育委員会
    小金井市教育委員会

名勝 小金井(サクラ)の説明板
小金井橋と名勝小金井(サクラ)の碑
名勝小金井(サクラ)説明板と桜と五日市街道

小平市に入った五日市街道は
玉川上水緑道の一部に
「自然とふれあう小平21kmグリーンロード」
という名前を付けて整備を進めているようだった。

「自然とふれあう小平21kmグリーンロード」の看板
小金井橋の横から西へ続く「自然とふれあう小平21kmグリーンロード」

玉川上水散歩の4日目は、小金井橋が終点。
開削当初から架かっていた小金井橋は、
玉川上水に架かる橋の中でも特別な存在であることが
数々のモニュメントを見てよく分かった。

次回はここ小金井橋を出発し小平市を歩くことになる。
自然豊かな郊外の風景が広がることが期待され楽しみだ。