死の家の記録

本の概要

  • 出版社 ‏ : ‎ 光文社(光文社古典新訳文庫)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2013年2月20日
  • 著者 ‏ : ‎ ドストエフスキー 望月哲男 訳

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恐怖と苦痛、絶望と狂気、そしてユーモア。囚人たちの驚くべき行動と心理、そしてその人間模様を圧倒的な筆力で描いたドストエフスキー文学の特異な傑作が、明晰な新訳で今、鮮烈に蘇る。本書はドストエフスキー自らの体験をもとにした“獄中記”であり、『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』など後期作品の原点でもある。

「BOOK」データベース

十九世紀ロシアのリアルな監獄風景

いやはや、人間とはしぶとい生き物である。人間はどんなことにも慣れてしまう生き物だ——思うに、これこそが人間にぴったりの定義である。

『死の家の記録』(ドストエフスキー著 望月哲男訳)

 この物語は,ドストエフスキー自身の経験を基に作品化されている。
 ドストエフスキーは政治犯として4年間をオムスク監獄で服役し,その間に記した『シベリア・ノート』から幾つものエピソードを抜粋し,この作品に取りいれた。作品中には実在人物をモデルとする人物も多数登場する。
 (オムスクはシベリア連邦管区の西南端)

 しかし,作中の主人公であるゴリャンチコフは妻殺しの罪で10年の囚役と追放の刑に処されており,貴族出身の囚人であるということ以外はドストエフスキーとは異なる設定となっている。
 歴とした確かな記録に基づくリアルさを持つが,ルポルタージュではなく物語なのだ。


 監獄の中は,ロシアという広大な国そのもののように多様性に富んでいる。
 国内に住む様々な身分,民族,宗教を持つ人々が強制的に寝食を共にし,24時間一緒に過ごす場所。それが監獄なのだ。

 十九世紀のロシアの監獄がどのような場所であったか,どのような刑罰があり,刑罰にはどのような道具が使われていたか。囚人達の病院はどんな環境だったか。また監獄内での一般市民出身と貴族出身の間にはどんな関係があったか。シベリアの市民が囚人に抱いている感情はどういったものであったか。ロシアという広大な国に住む多くの民族の関係や,多彩な宗教を持つ人々の関係がどうであったか。監獄で暮らす人々はどのようなことに楽しみを見出し,どんなことに憎しみを抱いたのか。ロシアの一般民衆にはどういった文化が根付いていたか。
 そういったことを読み解ける逸話が,ロシア各地からやってきた囚人達の物語を通し詳細に書かれている。


「囚人」という言葉の意味は、自由(ヴォーリャ)のない人間ということに尽きる。ところが金を浪費する囚人は、すでに自分の自由な意志のままに振る舞っているわけだ。

『死の家の記録』(ドストエフスキー著 望月哲男訳)

 クリスマスの期間は囚人達にとって入浴や食事,演劇などの楽しみが与えられ,そこにはロシアの民衆の中に昔から語り継がれ根付いている文化が垣間見られる。


実際、我が国の僻遠の町や県には一種独特な劇の演目があって、それはどうやら誰も知る者がなく、ひょっとしたらかつてどこにも印刷されたことがないくせに、どこからかひとりで現れて、ロシアのある一帯のすべての民衆劇にとって欠かすことのできない要素になっているのである。

『死の家の記録』(ドストエフスキー著 望月哲男訳)

 本書は,物語本編を読み終えた後の残り10%は,諸事情により出版時に含まれなかった章,訳者による「読書ガイド」「ドストエフスキー年譜」「あとがき」となっている。
 特にP.528からの読書ガイドは物語を読み解くのに非常に役に立つものだった。


 先にも触れた民衆と貴族・知識人階級との溝に関するテーマは、何よりもまず、きわめてロシア的な問題でした。語り手は第一章から始めていくつかの箇所でこの問題に触れ、最終的に「直訴」の章でその溝の埋めがたさを再確認しています。彼によれば、貴族にとっての監獄生活のつらさは、教養の落差でも食事などの条件でもなく、まさに周囲の民衆との断絶にあるのです。世間においていかに民衆と親しく付き合っても、監獄のような状況で強制された共同生活を送らなければ、この落差は実感できない。

『死の家の記録』(ドストエフスキー著 望月哲男訳)読書ガイド

 本編の物語の中で再三再四語られるのが,主人公の貴族としての孤独だった。
 貴族と民衆の間には憎しみすら入り込む余地がないほどの断絶があり,それを主人公は監獄へ来て初めて知り,民衆の悪意無き拒絶に出会って,また民衆が悪意無く押しつけてくる貴族像に雁字搦めにされるのだ。


おそらくドストエフスキーは、社会の表層でしかない知識人階級こそが圧倒的多数の民衆に学ぶ気持ちにならないと、ロシアの有機的統一は実現しないと言いたいのです。

『死の家の記録』(ドストエフスキー著 望月哲男訳)読書ガイド

 表題の「死の家」という言葉は,文字通りの生物学的「死」ではない。
 物語に描かれているのは囚人達の生き様だ。中には確かに病気で死ぬ者もあるが,囚人達は死に至るほどの過酷な労働を強いられているわけでもない。

 囚人達は収監されるにあたって,入れ墨を入れられ,頭の半分だけを刈られ,継ぎ接ぎ布の滑稽な囚人服を着せられ,身分を剥奪され,人間としての尊厳を奪われる。
 自由を奪われたその状況が「死」なのだ。
 そして,作中の囚人達はそのような監獄での罰によって矯正されたり反省したりすることはないのだった。

 訳者による「読書ガイド」によると,ドストエフスキーを評価しつつも手放しで賞めることがなかったトルストイが,唯一全面的に認め評価した作品が本書であったということだ。


 時代的にも地理的にも文化的にも遠い世界の物語であるという目新しさだけでも十分に読み応えがあり迫力があり面白く読める本だが,多くの示唆に富み,読み方次第でもっと普遍的な人間の問題や本質を考えることもできる,
 何度も読み返してみたくなる書籍であると思う。


老人と海

本の概要

  • 出版社:新潮社(新潮文庫)
  • 著者:ヘミングウェイ 訳者:福田恆存(ふくだつねあり)
  • 発行:昭和41年6月15日 (昭和62年5月25日 62刷)

キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。四日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰路サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく……。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作。

『老人と海』裏表紙紹介

何が面白いのか?

 この世界的名著とされる作品を,人生も老年期が近づきつつある今になって初めて読んでみる気になった。高校生の読書感想文の課題図書などに挙げられる本書のことは当然昔から知っていたし,手に取って読んだ友人から話を聞いたりもしたが,一様に「退屈」「つまらない」「何で名作なのか分からない」といった感想を漏らすため,わざわざ読もうと思えなかったのだ。

 だが,ふと「この年齢になった私なら退屈と思わないかもしれない」という考えが過り,試してみたくなった。


海のことを考えるばあい、老人はいつもラ・マルということばを思いうかべた。それは、愛情をこめて海を呼ぶときに、この地方の人々が口にするスペイン語だった。海を愛するものも、ときにはそれを悪しざまにののしることもある。が、そのときすら、海が女性であるという感じはかれらの語調から失われたためしがない。もっとも、若い漁師たちのあるもの、釣綱につける浮きのかわりにブイを使ったり、鮫の肝臓で大もうけした金でモーターボートを買いこんだりする連中は、海をエル・マルというふうに男性あつかいしている。かれらにとって、海は闘争の相手であり、仕事場であり、あるいは敵でさえあった。しかし、老人はいつも海を女性と考えていた。それは大きな恵みを、ときには与え、ときにはお預けにするなにものかだ。たとえ荒々しくふるまい、禍いをもたらすことがあったとしても、それは海みずからどうにもしようのないことじゃないか。月が海を支配しているんだ、それが人間の女たちを支配するおうに。老人はそう考えている。

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

 背表紙の説明にもあるように,舞台はキューバの首都ハバナのコヒマル地区。

 長い間漁師として暮らしてきた老人(サンチャゴ)だが,84日も魚が捕れない日が続いていた。最初の40日は少年(マノーリン)と一緒だったが,不漁が続いたためマノーリンの親が少年に別の舟に乗るよう言いつけたため,その後老人は一人で漁に出ていた。マノーリンはサンチャゴを尊敬しており慕っていたが,親に逆らうことはできない。

 不漁続き85日目のその日,一人で沖へ出た彼の網に大きなマカジキがかかった。老人は経験の全てを総動員して空と海を読み,その魚を得るために全力を注ぐ。3日もの間,少量の食べ物と水だけで体を保ち,眠りもせずに魚と共に海を漂う。

 3日間も一人で海と海の底の魚を相手に様々なことを考え独白するサンチャゴ。そのうちにサンチャゴの中には彼を振り回している大魚に対する兄弟のような尊敬や愛情の心が芽生えてくる。愛し尊敬しても彼は魚を殺さなければならない。彼は漁師なのだから。


あれ一匹で、ずいぶん大勢の人間が腹を肥やせるものなあ、とかれは思う。けれど、その人間たちにあいつを食う値打ちがあるだろうか? あるものか。もちろん、そんな値打ちはありゃしない。あの堂々としたふるまい、あの威厳、あいつを食う値打ちのある人間なんて、ひとりだっているものか。

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

 彼は全身に傷を負いつつも遂に勝利を手にするが,帰路で鮫に襲われ全てを失った。
 あの美しく威厳があった,そして彼が兄弟のように愛した大きなマカジキが次々と現れる鮫たちに食いちぎられていく中で,サンチャゴは心から後悔をする。


「これが夢だったらよかった。釣れないほうがよかったんだよ。こいつにはすまないことをしたなあ。釣りあげたのがまちがいのもとだ」

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

「こんなに遠出をする手はなかったんだよ」老人は魚に話しかけた、「お前にとっても、おれにとっても、意味なかった。本当にすまないなあ」

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

 海の上での3日間の彼の言葉の端々に,彼の海についての知識の深さが窺える。
 だがそれでもサンチャゴは鮫に敗北するしかなかったのだ。そこには知恵と気力で大魚に勝利した老人にさえも,どうにもできない大自然への畏敬が感じられる。

 サンチャゴを慕い心配していた少年(マノーリン)に,またとない大きなマカジキの嘴を譲れたことがサンチャゴの得た勲章ではないだろうか。


自然の一部である人間

 文学を専門にする方々の評価などは知らないし,特に興味も持っていない。
 この作品の名作たる理由などもよくわからない。

 だが,退屈でつまらないとは思わなかった。3日間一人で大自然の厳しさと正面から向き合っていた老人の語りは,地球の営みや生命の力強さと儚さについて考える哲学の世界だった。


「鳥ってやつはおれたちより辛い生活をおくっている、泥棒鳥はべつだがな、それに、でかくて強いやつはべつだ。けれど、なんだって、海燕みたいな、ひよわで、きゃしゃな鳥を造ったんだろう、この残酷な海にさ? なるほど海はやさしくて、とてもきれいだ。だが、残酷にだってなれる、そうだ、急にそうなるんだ。それなのに、悲しい小さな声をたてながら、水をかすめて餌をあさりまわるあの小鳥たちは、あんまりひよわに造られすぎているというもんだ」

『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存 訳

 この物語の主題は老いの悲哀であるとか,全ては老人の夢落ちであるとか,様々な意見があるようだが,私が感じたのは,貿易風や海流を創り出す地球の大自然の中で等しい存在として生きて死ぬ人間と魚や鳥の営みの哀しさと力強さだった。
 夢落ちって線はないだろうと思う。

 一つだけ疑問に思うのは,こんなにも海に詳しいサンチャゴなら鮫が襲ってくるであろうことなど大魚を仕留める以前に気がつく筈だろうに?ということだ。大魚と出会った時点で彼の思考は非日常の世界に填まり込んで,そのようなことを思い付く余地が消えてしまったのだろうか。

 年を取って読み返すほどに感じることが増えていく作品なのかもしれない。
 それゆえに,高校生の時分に「つまらない」という感想を持っておくことにも価値がある作品なのではないかと思った。