方丈記 (光文社古典新訳文庫)

  • 出版社:光文社
  • 発売日:2018年09月20日
  • 著 者:鴨長明 著 蜂飼耳 訳

災厄の数々、生のはかなさ……。人間と、人間が暮らす建物を一つの軸として綴られた、日本中世を代表する随筆。京都郊外の日野に作られた一丈四方の草庵で、何ものにも縛られない生活を見出した鴨長明の息遣いが聞こえる瑞々しい新訳! 和歌十首と、訳者のオリジナルエッセイ付き。

「BOOK」データベースより

本の構成

  • 訳者まえがき
  • 方丈記(現代語訳)
  • エッセイ(移動の可能性と鴨長明)
  • 方丈記(原典)
  • 『新古今和歌集』所収の鴨長明の短歌
  • 『発心集』巻五、一三「貧男,差図を好む事」訳と原文
  • 図版
  • 解説
  • 年譜
  • 訳者あとがき

 訳者の蜂飼耳氏による解説と現代語訳があるため,作品および鴨長明自身の背景がわかって身近に感じられるため,たいへん理解しやすい書籍に仕上がっている。


方丈記の時代

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。

鴨長明『方丈記』

 この有名な『方丈記』の冒頭は,高校の古文で誰もが一度は聞いたことがあるだろうと思う。だが,まず鴨長明が生きた時代について学び,彼がどんな経験をした後にこれを書いたかを知れば,高校生の時点でもっと『方丈記』に引き込まれたのではないだろうか。

 本書に書かれた解説や訳者の蜂飼耳さんのエッセイを読んで,強くそう思った。

 鴨長明は,20代〜30代にかけて,大変な災厄の時代を経験し生き抜いているのである。
 大火事に竜巻,飢饉に遷都に大地震。
 どれをとっても今の時代ですら大変な災害だが,当時の民衆の苦しみは現代とは比較にならないほど悲惨極まるものなのだ。

  • 1177年 安元の大火(平安京で発生した大火事) 鴨長明 23歳
  • 1180年 治承の辻風(中御門京極で発生した竜巻)・福原遷都 鴨長明 26歳
  • 1181〜1182年 養和の飢饉 鴨長明 27〜28歳
  • 1185年 元暦の大地震 鴨長明 31歳

 『方丈記』には,これら五大災厄の被害について具体的に記述されている。

 どれだけの家が焼けたりつぶれたりし,人々はどのような状況で怪我をしたり死んだりしたか。どの災害でどんな人々が財を失い路頭に迷ったか。
 2年続いた飢饉では,五穀実らず身分の高い者までが物乞いをして歩き回らねばならず,賀茂川の河原には餓死者の死体がいっぱいで馬車も通れないほどになり,街には死臭が溢れていた。

 平家の怨念とも言われた元暦の大地震。
 これも並大抵の地震ではなかった。山が崩れて川を埋め,海が傾いて陸地が浸水し,地面が裂けて水が噴き出したという。『方丈記』には余震の回数や期間まで書かれている。

 正確で詳細な記述から,『方丈記』は災害のルポルタージュとも呼ばれているとのことだ。
 鴨長明は,昔の賢帝の御代では民を大切にしていたが,今の世の中はどうだろうと嘆く。

 『方丈記』では触れられていないが,鴨長明が5歳の年には保元の乱や平治の乱が起こり,飢饉の年には平清盛の死,大地震の時には壇の浦の戦いで平家が滅亡するとう社会的な大事件も起こっている。
 正に激動の時代で,次々に起こる社会情勢の変化や自然災害で,民の生活は風前の灯火のように厳しく儚いものだったことは容易に想像できる。


すべて世中のありにくく、わが身と栖との、はかなくあだなるさま、又かくのごとし。いはむや、所により身のほどにしたがひつつ、心をなやます事は、あげて不可計(かぞふべからず)。 

鴨長明『方丈記』

 こんな大きな災厄に次々と襲われて,世の中というものは生きにくく,人の命もその住処も儚く,誰もが各々の身の上において数知れず心悩ましている…。

 『方丈記』に流れる人の命とその住処の虚しさ儚さは,こんな時代を背景としているのだ。
 冒頭の有名な文章も,この背景を知るのと知らないのとでは大きく印象が変わってくるのではないだろうか。


方丈の庵

 後半には,長明自身の生い立ちや住処の変遷,最後に辿り着いた方丈の庵について詳しく書かれている。

 最初に住んでいた祖母の家を出て,30歳で祖母の家の十分の一ほどの大きさの草庵 に移ったこと。50歳の春に出家し,大原で5年ほどひっそりと暮らしたこと。
 そして60歳で広さ一丈四方(方丈)の庵を作った。

 土台と簡単な屋根,掛け金で留めただけの柱と壁,何かあったら簡単に引っ越せるように考えた家だった。
 『方丈記』は,日野山の奥に作ったこの簡素な広さ一丈四方(方丈)の庵で書かれており,この家の広さが作品の名前の由来になっている。

 作中に家の中の様子も詳細に描かれている。
 東に三尺の庇と竈,南に竹すのこを敷いて,すのこの西側に仏具を備える閼伽棚,北に障子と衝立を設けて仏間を作り,阿弥陀と菩薩の絵を飾って『法華経』を置いた。東の端に夜の寝所。
 西南に竹の吊り棚を設け,その上には皮籠を3つ。中には和歌や管弦の書物を入れ,そのそばに琵琶と琴を立てかけた。

 方丈の庵の中はそんな感じだった。
 林が近く薪集めの苦労も要らず,人が通っても生い茂る植物ですぐに見えなくなる。


春はふぢなみをみる、紫雲のごとくして西方ににほふ。夏は郭公(ほととぎす)を聞く、かたらふごとに、死出の山ぢをちぎる。あきはひぐらしのこゑみみに満り。うつせみの世をかなしむほどきこゆ。冬は雪をあはれぶ。つもり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。

鴨長明『方丈記』

 春は阿弥陀来迎の紫雲のような藤の花が咲き,夏には冥土の案内人とされるホトトギスの声が聞こえるので,死出の時はよろしくねと思う。
 秋はこの世を哀しむようなヒグラシの声が辺りを見たし,冬は雪を見てその消えゆく様子から人の罪障を考える。

 人の目もないから失敗を気にすることもないし,怠けたいときに怠けることを禁じる人もいないし,それを恥じる必要も無い。

 鴨長明は,時々遊びに来る10歳の男の子と山歩きをし,芹を摘んだり梨をもいだり落ち穂を拾ったりを楽しんでいた。
 純粋に自分のための生活を楽しんでいる様子が潔い。


『方丈記』以外で見る鴨長明

 本書の特徴として,著者による現代語訳及びエッセイ,鴨長明が『新古今和歌集』に残した歌の紹介,鴨長明が書いた仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』巻五の紹介がある。
 鴨長明といえば『方丈記』で,それ以外何も知らず聞いたこともなかったので大変興味深かった。

 『発心集』には家の設計図を書いて家の建築計画を楽しむ男について書かれていて,この物語が面白い。当時の決して生きやすくない世界でも,人々は工夫して各々の世界を持って楽しんでいた様子が垣間見られる。

 どんなに趣向を凝らし一生懸命に建てた素晴らしい家も災害であっというまにダメになるかもしれないし,儚い人の命のことだから,実際に住める時間も長くない。
 だが,その男が楽しんでいる家は,たった紙一枚あれば作ることができ,災害でなくす心配もなく,それでいて心が住むには十分だ。


 龍樹菩薩のたまひけることあり。「富めりといへども、願ふ心やまねば、貧しき人とす。貧しけれども、求むることなければ、富めりとす」と侍り。

鴨長明『発心集』巻五

 鴨長明が歌人としても名を馳せていたことも,本書にて初めて知った。
 一首だけ抜粋し記しておく。


秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮

秋風はだれの袖にだって吹き寄せるものだろう。それなのに、私の袖にばかり、こうして(涙の)露ができるのは、ただ私のこの心のせいだ。秋の夕暮れだな。

『新古今和歌集』

移動祝祭日

  • 出版社 ‏ : ‎ 新潮社(新潮文庫)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2009年2月1日
  • 著者 ‏ : ‎ ヘミングウェイ 高見浩 訳

1920年代、パリ。未来の文豪はささやかなアパートメントとカフェを往き来し、執筆に励んでいた。創作の苦楽、副業との訣別、“ロスト・ジェネレーション”と呼ばれる友人たちとの交遊と軋轢、そして愛する妻の失態によって被った打撃。30年余りを経て回想する青春の日々は、痛ましくも麗しい―。死後に発表され、世界中で論議の渦を巻き起こした事実上の遺作、満を持して新訳で復活。

「BOOK」データベース

移動祝祭日とは

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。

ある友へ アーネスト・ヘミングウェイ 一九五〇年

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳

 何の前知識も無くこの表題を見ただけでは「移動祝祭日」と言われても全く意味が掴めないが,扉に書かれたこの一言でなるほどと思う。
 タイトルの経緯は,翻訳者による巻末の解説に詳しく書かれていた。

 「ある友へ」の「友」とは『パパ・ヘミングウェイ』の著者であるA.E. ホッチナーのこと。

 本書は,ヘミングウェイの死後に夫人の手によって発行された。
 ヘミングウェイ自身によって幾つかの表題が考えられていたが,彼の死後に本作を発表することになった夫人はタイトル選定に悩んでいた。そこに,ヘミングウェイと親しかったホッチナーが,「A Moveable Feast」を提案したのだ。

 29歳のホッチナーと50歳のヘミングウェイが二人でパリを歩き回った時,パリで暮らしてみたくなったと話すホッチナーに対し,ヘミングウェイはしばらく考えた後にこう言ったのだった。
 「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは a moveable feast だからだ。」と。

 ホッチナーはこの言葉に感銘を受け,ホテルに戻るとすぐに書き留めた。
 そしてそれが,本書のタイトルになったのだそうだ。


パリのカフェで過ごした若き時代の執筆の日々

 22歳の無名作家だったヘミングウェイが,新婚の妻ハドリーを伴ってパリへ渡ったのは1921年12月のことだった。
 自由な気風がみなぎるパリ,しかもドルが強い時代でアメリカより生活費が安かったパリには,当時アーティストを目指す多くのアメリカの若者が渡っていた。

 ヘミングウェイは,シャーウッド・アンダースンが書いてくれた,ガートルート・スタインやエズラ・パウンドへの紹介状を携えており,そういった先輩アーティストたちとの交流を手掛かりに様々な感性を吸収し学んでいく。
 作中には多くの実在人物が登場し,彼らとの交際の記憶が詳しく語られている。固有名詞が多いものの,そういった芸術家たちのことを知らなくとも,面白く読むことができる。


ときどき、よく晴れた日には、私もワインの一リットル壜とパンとソーセージをいくらか買いこんで、日当たりのいい場所に腰を下ろし、持参した本を読んだり、釣りを眺めたりしたものだ。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳

 また,当時のヘミングウェイの日常生活も生き生きと語られる。

 パリで人気だった幾つかのカフェやそこへ通う人物像,お気に入りのカフェでの出来事,本を手に入れる方法や,貧乏な宿での暮らしを楽しむやり方,食生活のこと,妻のハドリーや息子のバンビのことなどだ。
 日本人には馴染みがない風習についての記述も出てくる。


「ああ、ぼくらはいつもツイてるのさ」私は言ったが、ついうっかりして木を叩かなかった。叩く気なら、その部屋の至るところに木製の物があったのに。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳


 英米には友人に自慢話をすると災いが訪れるという迷信があり,それを防ぐためのおまじないとして「木を叩く」のだそうだ。


 回想は,1925年,ヘミングウェイが『日はまた昇る』を書き始め,2人目の妻となるポーリーン・ファイファーと出会った頃で終わっている。
 ポーリーンとの結婚生活が不幸だったわけでもなさそうだが,本作は一貫してハドリーに寄り添った書かれ方がなされており,本作は最初のパリ生活を共に過ごしたハドリーに捧げたものではという印象を強く受けた。

 その後,ポーリーンとの浮気が原因で,この物語を通してヒロインだったハドリーとの破局を迎える。ヘミングウェイは『日はまた昇る』の印税を全てハドリーに贈ることを約束し,1927年に離婚することになるのだ。


悲哀溢れた晩年が生み出した輝く過去

 1920年代のパリの街並みを背景に繰り広げられる若い男性の遍歴から,人の世の無常な流れに感じ入る1冊であったと思う。

 ヘミングウェイがこの作品に着手したのは1957年のことだった。
 1954年に『老人と海』でノーベル文学賞を受賞したものの,同年2回に渡って飛行機事故に遭い,以降はその後遺症で肉体面でも精神面でも健康を損なった。
 そんな苦しみと闘いながら,輝かしい若い頃の記憶をたどり書き綴ったのが本書だ。

 そう思って読むと,過去の日々を愛でる慈しみの中にどこかしら深い悲哀が溢れているようだった。ハドリーに寄り添う筆運びからもそれが強く感じられた。

 ヘミングウェイと生涯つきあいのあったフィッツジェラルドについて書かれたこの一文が,まさに本書『移動祝祭日』全体に流れる切なさの結晶のように思える。


スコット・フィッツジェラルド
彼の才能は蝶の羽根の鱗粉が綾なす模様のように自然だった。ある時期まで、彼は蝶と同じようにそのことを理解しておらず、模様が払い落とされたり、損なわれたりしても、気づかなかった。のちに彼は傷ついた羽根とその構造を意識し、深く考えるようになったが、もはや飛翔への愛が失われていたが故に、飛ぶことはできなかった。残されたのは、いともたやすく飛ぶことができた頃の思い出だけだった。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳

 本のはじめに,ヘミングウェイ自身が書いている。
 「もし読者が望むなら、この本はフィクションと見なしてもらってもかまわない。」と。


自伝とは、往々にして過去の再現というより過去の再構築であることが多い。作者の恣意が、そこで大きな役割を果たすのは、いわば不可避のことと言っていい。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳 解説

 この物語は事実でありながら,晩年思うようにかけなくなったヘミングウェイによる,生気溢れた輝く時代が再構築されたフィクションでもあるのだろう。

 1957年に本書に着手したヘミングウェイは,何度か中断しながら1960年に完成させた。その後,おそらく原稿チェックの段階で1961年3月にハドリーに電話をかけて思い出せないことを確認した。そして,その3ヶ月後の7月にピストル自殺を図ったのだった。

 誰にでも自分の人生の祝祭日というものがあるのではないだろうか。
 それは場所かもしれないし人かもしれない。区切られた何かの時代かもしれない。あるいはペットかもしれないし物かもしれない。

 そんな自分の活き活きとした移動祝祭日に想いを馳せたい日が来たら,本書を思い出して読み返してみるのかもしれないと思う。