移動祝祭日

  • 出版社 ‏ : ‎ 新潮社(新潮文庫)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2009年2月1日
  • 著者 ‏ : ‎ ヘミングウェイ 高見浩 訳

1920年代、パリ。未来の文豪はささやかなアパートメントとカフェを往き来し、執筆に励んでいた。創作の苦楽、副業との訣別、“ロスト・ジェネレーション”と呼ばれる友人たちとの交遊と軋轢、そして愛する妻の失態によって被った打撃。30年余りを経て回想する青春の日々は、痛ましくも麗しい―。死後に発表され、世界中で論議の渦を巻き起こした事実上の遺作、満を持して新訳で復活。

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移動祝祭日とは

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。

ある友へ アーネスト・ヘミングウェイ 一九五〇年

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳

 何の前知識も無くこの表題を見ただけでは「移動祝祭日」と言われても全く意味が掴めないが,扉に書かれたこの一言でなるほどと思う。
 タイトルの経緯は,翻訳者による巻末の解説に詳しく書かれていた。

 「ある友へ」の「友」とは『パパ・ヘミングウェイ』の著者であるA.E. ホッチナーのこと。

 本書は,ヘミングウェイの死後に夫人の手によって発行された。
 ヘミングウェイ自身によって幾つかの表題が考えられていたが,彼の死後に本作を発表することになった夫人はタイトル選定に悩んでいた。そこに,ヘミングウェイと親しかったホッチナーが,「A Moveable Feast」を提案したのだ。

 29歳のホッチナーと50歳のヘミングウェイが二人でパリを歩き回った時,パリで暮らしてみたくなったと話すホッチナーに対し,ヘミングウェイはしばらく考えた後にこう言ったのだった。
 「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは a moveable feast だからだ。」と。

 ホッチナーはこの言葉に感銘を受け,ホテルに戻るとすぐに書き留めた。
 そしてそれが,本書のタイトルになったのだそうだ。


パリのカフェで過ごした若き時代の執筆の日々

 22歳の無名作家だったヘミングウェイが,新婚の妻ハドリーを伴ってパリへ渡ったのは1921年12月のことだった。
 自由な気風がみなぎるパリ,しかもドルが強い時代でアメリカより生活費が安かったパリには,当時アーティストを目指す多くのアメリカの若者が渡っていた。

 ヘミングウェイは,シャーウッド・アンダースンが書いてくれた,ガートルート・スタインやエズラ・パウンドへの紹介状を携えており,そういった先輩アーティストたちとの交流を手掛かりに様々な感性を吸収し学んでいく。
 作中には多くの実在人物が登場し,彼らとの交際の記憶が詳しく語られている。固有名詞が多いものの,そういった芸術家たちのことを知らなくとも,面白く読むことができる。


ときどき、よく晴れた日には、私もワインの一リットル壜とパンとソーセージをいくらか買いこんで、日当たりのいい場所に腰を下ろし、持参した本を読んだり、釣りを眺めたりしたものだ。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳

 また,当時のヘミングウェイの日常生活も生き生きと語られる。

 パリで人気だった幾つかのカフェやそこへ通う人物像,お気に入りのカフェでの出来事,本を手に入れる方法や,貧乏な宿での暮らしを楽しむやり方,食生活のこと,妻のハドリーや息子のバンビのことなどだ。
 日本人には馴染みがない風習についての記述も出てくる。


「ああ、ぼくらはいつもツイてるのさ」私は言ったが、ついうっかりして木を叩かなかった。叩く気なら、その部屋の至るところに木製の物があったのに。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳


 英米には友人に自慢話をすると災いが訪れるという迷信があり,それを防ぐためのおまじないとして「木を叩く」のだそうだ。


 回想は,1925年,ヘミングウェイが『日はまた昇る』を書き始め,2人目の妻となるポーリーン・ファイファーと出会った頃で終わっている。
 ポーリーンとの結婚生活が不幸だったわけでもなさそうだが,本作は一貫してハドリーに寄り添った書かれ方がなされており,本作は最初のパリ生活を共に過ごしたハドリーに捧げたものではという印象を強く受けた。

 その後,ポーリーンとの浮気が原因で,この物語を通してヒロインだったハドリーとの破局を迎える。ヘミングウェイは『日はまた昇る』の印税を全てハドリーに贈ることを約束し,1927年に離婚することになるのだ。


悲哀溢れた晩年が生み出した輝く過去

 1920年代のパリの街並みを背景に繰り広げられる若い男性の遍歴から,人の世の無常な流れに感じ入る1冊であったと思う。

 ヘミングウェイがこの作品に着手したのは1957年のことだった。
 1954年に『老人と海』でノーベル文学賞を受賞したものの,同年2回に渡って飛行機事故に遭い,以降はその後遺症で肉体面でも精神面でも健康を損なった。
 そんな苦しみと闘いながら,輝かしい若い頃の記憶をたどり書き綴ったのが本書だ。

 そう思って読むと,過去の日々を愛でる慈しみの中にどこかしら深い悲哀が溢れているようだった。ハドリーに寄り添う筆運びからもそれが強く感じられた。

 ヘミングウェイと生涯つきあいのあったフィッツジェラルドについて書かれたこの一文が,まさに本書『移動祝祭日』全体に流れる切なさの結晶のように思える。


スコット・フィッツジェラルド
彼の才能は蝶の羽根の鱗粉が綾なす模様のように自然だった。ある時期まで、彼は蝶と同じようにそのことを理解しておらず、模様が払い落とされたり、損なわれたりしても、気づかなかった。のちに彼は傷ついた羽根とその構造を意識し、深く考えるようになったが、もはや飛翔への愛が失われていたが故に、飛ぶことはできなかった。残されたのは、いともたやすく飛ぶことができた頃の思い出だけだった。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳

 本のはじめに,ヘミングウェイ自身が書いている。
 「もし読者が望むなら、この本はフィクションと見なしてもらってもかまわない。」と。


自伝とは、往々にして過去の再現というより過去の再構築であることが多い。作者の恣意が、そこで大きな役割を果たすのは、いわば不可避のことと言っていい。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ 高見浩 訳 解説

 この物語は事実でありながら,晩年思うようにかけなくなったヘミングウェイによる,生気溢れた輝く時代が再構築されたフィクションでもあるのだろう。

 1957年に本書に着手したヘミングウェイは,何度か中断しながら1960年に完成させた。その後,おそらく原稿チェックの段階で1961年3月にハドリーに電話をかけて思い出せないことを確認した。そして,その3ヶ月後の7月にピストル自殺を図ったのだった。

 誰にでも自分の人生の祝祭日というものがあるのではないだろうか。
 それは場所かもしれないし人かもしれない。区切られた何かの時代かもしれない。あるいはペットかもしれないし物かもしれない。

 そんな自分の活き活きとした移動祝祭日に想いを馳せたい日が来たら,本書を思い出して読み返してみるのかもしれないと思う。