三菱重工業(株)熊本航空機製作所の工員宿舎

少し前の写真になるが,記録のために記しておく。

熊本へ帰省すると,私は夕刻の父の散歩に付き合うようにしている。
そのいつもの父の散歩コースに,
熊本の歴史を刻んだ建物がひっそりと建っていた。
太平洋戦争の最中,戦火を逃れて愛知県から熊本県へ場所を移した,
三菱重工業(株)熊本航空機製作所の工員宿舎の最後のひと棟だ。

2018-04-13

震度7を記録した2016年の熊本地震でも倒壊することなく,
既に無人ではあったものの,家はそのままの状態で残っていた。

このあたりは熊本市の中でも震源地の益城町に近い場所なのだ。
私の実家は半壊だったし,近所でも赤紙・黄紙続出。
地震のあと既に多くの家が建て変わり,更地も増えた。
この家はよく残ったものだと思う。瓦も健在ではないか!
きっとしっかり建てられた家だったのだろう。

2018-04-13

2018年当時82歳だった父によると,
この家は家族がいる工員用の社宅だったのだそうだ。

「水菱園」という名前で,
戦時中,三菱重工の社員が住んでいた当時は,
この周囲にずらっとたくさん同じ家が建っていたとのことだ。

また,少し離れた場所には,
独身者向けの,これより小さな工員宿舎が並ぶ場所もあったという。

2018-04-13

この地区の小学校,私の父も通っていたその小学校には,
愛知県から多数の子供達が転校してきた。

愛知県出身の三菱重工社員の子供たちは,
良い教育環境で育っていて,勉強ができて成績優秀だった。
対し,この地域の地元の子たちは違った。
勉強に重きを置かない家庭の子が多く,
愛知県から来た子供達にみな劣等感を抱いていたそうだ。
地元組の中でもっとも勉強ができた私の父は,
地元の名誉のために良い成績を期待され頑張ったとのこと。 

2018-04-15

阿蘇を望む熊本市の東部には,
かつて三菱重工が存在した名残が今もたくさん残っている。
戦争の記憶を持つ人も少なくなった今,
それらは熊本市の風景にすっかり馴染み,誰も注意を払ったりしない。
 
けれど,水前寺が終点だった熊本市電が,
今の健軍終点まで延びたのは,三菱重工のためだった。
小学生だった私が社会見学で行った井関農機や中央紡績の工場は,
三菱重工の跡地を利用して建っていた。
現在の陸上自衛隊健軍駐屯地もそうだ。

三菱重工の試験飛行場は,
熊本空港が現在の位置に移転する1971年まで,
熊本飛行場として使用されていた。
私は古い飛行場をよく覚えている。

2018-04-15

2018年4月に撮ったこれら写真が,水菱園の最後の写真になった。
2018年10月27日,
帰省して,いつものように父の散歩に付き合って歩いてみると,
水菱園の最後の1棟は取り壊され,空き地になっていた。

2018-10-27

空き地になった土地を見つめて,しばし呆然と立ち尽くした。
遙かな昔の風景が,
とうとう歴史の向こうへ霞んで消えてしまったのだ。

時代は巡り街は変わってゆく。
歴史の記憶は街の中に溶け込んで,
意識せぬままに受け継がれてゆくものなのだろうと思う。
三菱重工が残した熊本と愛知の絆は,
今も確かに熊本に残っていて,私はたまにそれを見つける。

水菱園の最後の姿を記録できたことは本当に良かった。
きっと今頃,ここには誰かの新しい生活が生まれているのだろう。


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