玉川上水を歩く (69) 羽村大橋から羽村取水所園地休憩所

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index


1日目は2019年2月18日。四谷大木戸を出発し、
玉川上水暗渠の上の緑道を笹塚まで歩いた。

2日目の2019年3月20日は、前回の終点、
新宿区笹塚「南ドンドン橋」を出発。
杉並区久我山の「岩崎橋」まで。

3日目の2019年3月24日は、
岩崎橋を出発、三鷹駅前の三鷹橋まで。

4日目の2019年3月31日は、
三鷹駅を出発、桜を見ながら小金井橋まで。

5日目の2019年4月6日は、
小金井橋を出発、小平市鷹の台駅近くの鷹の橋まで。

6日目の2019年4月21日は、
鷹の橋を出発、立川市武蔵砂川駅近くの見影橋まで歩いた。

7日目の2019年5月3日は、
見影橋を出発、拝島駅駅前の平和橋まで歩いた。

8日目の2019年5月5日は、
平和橋を出発、玉川上水の起点である
羽村取水口まで歩いた。

この記事で歩いた部分を青線で示した。地図はクリックすると拡大して見られる。

この記事には、
8日目、多摩川と玉川上水に架かる羽村大橋から
玉川兄弟の像がある羽村取水所園地休憩所までの写真を載せた。


羽村導水ポンプ所

羽村大橋の周辺には羽村導水ポンプ所の施設が点在する。

羽村導水ポンプ所

羽村導水ポンプ所は、
多摩川の水をポンプで汲み上げ、
羽村市内の小作(おざく)浄水場へ供給する施設。
無人で24時間運転している。

ポンプ場脇の道は広々として明るい雰囲気

羽村導水ポンプ所は、効率の良いエネルギー消費で
電力の約95%がポンプの運転に使われているとのことで、
2018年3月に東京都のトップレベル事業所に認定されている。

ちなみにトップレベル事業所とは、
「都民の健康と安全を確保する環境に関する条例」に基づいて、
地球温暖化対策に優れた事業所が認定されるものらしい。


羽村橋(はむらばし)

ポンプ所を過ぎしばらく歩くと、玉川上水最上流の交差点、
「羽村堰入り口」に到着した。
ここに架かっている橋は、玉川上水最上流の「羽村橋」。

羽村橋

橋の北詰は奥多摩街道との交差点で信号と歩道橋がある。
羽村橋の周辺は桜が美しく、桜の頃は祭で賑わうそうだ。

羽村橋と羽村堰入口交差点と奥多摩街道

羽村橋南詰の玉川上水の側道脇に、
「都立羽村草花丘陵自然公園」の石碑があった。

都立羽村草花丘陵自然公園の石碑

都立羽村草花丘陵自然公園は、
玉川上水や多摩川、浅間岳などを含む標高200~300mの丘。
あきる野市・福生市・羽村市にまたがっている。

羽村橋と平行して上流側には送水管が通り、
少し上流の側道脇には、
水道設備と思われる塔がそびえていた。


多摩川

羽村橋の上流は、玉川上水の側道から多摩川がよく見える。
多摩川の川原へ下りていけるようになっていた。

玉川上水の側道から多摩川の川原へ下りてゆく道

多摩川を背に案内地図が立っていた。
こういう観光用立て看板の地図って、
南北が逆になっていることが多い。
分かりやすくしているつもりなのだろうが、
地図は北が上と決まっているので理解に時間がかかる。
かえって分かりにくいと思う。

周辺案内板

玉川兄弟の像と羽村取水所園地休憩所

多摩川を見ながら500mほど歩き、前方に休憩所が見えてきた。
そして、木々に囲まれて見えるのは、
四谷大木戸を出発して以来、
会える日を待ち望んでいた玉川兄弟の像!

玉川兄弟の像

この像を目指して四谷から歩いてきたようなものなので、
思わず写真を沢山撮ってしまった。

この像のレプリカは、
東京都水道歴史博物館でも見ることができる。
 → 東京都水道歴史博物館 (1) 江戸時代の上水道

銅像の背後の壁に様々な銘板が埋め込まれている。

   表題 東京都知事安い誠一郎書
徳川氏の江戸に幕府を開くや市街を整え道路を通し衆庶の安住を計る 飲用水その主要なるを以て先に井頭溜池等の水を引いて之に充つ 三代家光の時に至って戸口増加し更にその対策に苦慮す 老中松平信綱は町奉行神尾元勝等をして多摩川の引水を計画せしむ 承應二年多摩郡羽村の生縁なる庄右衛門清右衛門の兄弟あり 触く水利に通じ土地の高低を察し幾多苦辛の末羽村に堰を設け水路を江戸四谷に通じて多摩川上水を引入れ以て市民の飲用に供す 幕府表彰して玉川の姓を免じて士分に列し明治政府また従五位を追贈す 爾来三百余年その規模は漸次拡大して今日の東京都の水道となり益々大東京の発展に寄与せり 茲に玉川氏往年創業の跡に兄弟の銅像を建設し東京都民の感謝の意を永遠に傳えんと欲す
  昭和三十三年九月
   玉川兄弟銅像建設委員會建
   東京都文化財専門委員稲村坦元撰
   鳳竹 仁平一確謹書

玉川兄弟銅像の銘板

玉川兄弟の像の横の多摩川の柵に、
堰の筏通場の説明板があった。

堰の筏通場の説明板

   堰の筏通場(せきのいかだとおしば)
 「きのう山下げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落し」と筏乗り唄にうたわれたように、多摩川上流から伐り出す青梅材を江戸(東京)に搬出する筏乗りにとって、羽村の堰は最大の難所でした。
 亨保3(1718)年、江戸幕府は筏が通過することにより堰が破損するという理由で、筏通しを全面禁止しました。その後、羽村以西の三田領42ヶ村の筏師仲間が幕府へ堰通過の再開を嘆願したことなどもあり、亨保6(1721)年に新たに筏通場が設置され、特定の日時を限っての通過が許可されました。以来堰を下る壮観な筏落しの風景は、大正時代(1912年~1926年)の末ごろまで見かけられました。
 平成30年3月   羽村市教育委員会

羽村堰の説明板
休憩所から見る多摩川

玉川兄弟の像がよく見える場所に東屋とベンチがあり
ゆっくりと休憩できるスペースになっている。

休憩所のベンチに座って見る玉川兄弟の像

休憩所の前に、昔から川の治水に使われてきた
「川倉」の模型と説明板があった。

牛枠の模型

   牛枠(川倉水制)
   うしわく(かわくらすいせい)
 昔の人たちは、祖先から受け継いだ知恵と自らの経験とに基づき、身近な素材を生かし自然と対話しながら、川を治めてきました。そうした治水の技術のひとつが、水の勢いを弱め、堤防が崩れるのを防ぐ「川倉」です。かたちが馬の背中に似ているところから「川鞍(かわくら)」と名づけられ、のちに「川倉(かわくら)」と呼ぶようになったこの仕組みには、さまざまな種類がありますが、最も一般的なものは「牛枠(うしわく)」と言われています。
 「牛枠」は、堤防に植えた河畔林を切り出し組立てます。木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川床の玉石をつめた蛇籠(じゃかご)で固定します。堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する、優れた知恵によるものです。
 かつて「牛枠」のほかにも、「聖牛(せいぎゅう)」「笈牛(おいうし)」・「鳥脚(とりあし)」などの「川倉」があり、あちこちの川で働いていました。しかし今日では、ほとんどその姿を見ることができなくなっています。

羽村堰の牛枠の説明板
牛枠の説明板

玉川兄弟を見ながらしばし休憩し、
いよいよこの玉川上水散歩の最後の場所、
そして玉川上水が始まる場所、羽村堰へ向かった。