東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。
玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。
多摩川の水を羽村取水堰で取水し、
武蔵野台地の上を通り、
四谷大木戸の水番所まで全長43kmを流れる。
四谷大木戸は江戸の関所があった場所でもあり、
上水はここから木樋や石樋を通して江戸の市中へ分配された。
羽村から大木戸までは露天掘りで、
武蔵野台地の尾根筋を流れているため、
玉川上水周辺は谷底を流れる一般の川とは違った趣を備えている。
この玉川上水を、四谷から羽村まで
遡って歩いてみることにした。
四谷大木戸は現在の四谷四丁目交差点付近にあり、
国道20号(甲州街道)と
東京都道418号(外苑西通り)が交差している。
交差点横の新宿区四谷区民ホールの前にも、
四谷大木戸の碑があり、
その近くには玉川上水の碑も見ることができる。
玉川上水水番所跡(たまがわじょうすいみずばんしょあと)
所在地 新宿区内藤町八十七番地
玉川上水は、玉川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠(かいきょ)で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を近く埋設して通水した。
水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
定
一、此上水道において魚を取水をあび
ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷
並両側三間通に在来候並木下草
其外草刈取申間敷候事
右之通相背輩あらば可為曲事者也
元文四巳未年十二月 奉行
東京都指定有形文化財(古文書)
水道碑記(すいどうのいしぶみのき)
指定年月日 昭和五年十二月
玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ四六〇センチ、幅二三〇センチ。上部の篆(てん)字は徳川家達、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に七八〇字、裏面に一三〇字が陰刻されている。
碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(一八九五)に完成したものである(裏面銘文)。新宿区教育委員会 史跡説明版
四谷大木戸跡碑(よつやおおきどあとひ)
四谷大木戸碑(この説明版の裏側にある)は、昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られた記念碑である。
実際の大木戸の位置は、ここより約八〇メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
平成二十四年六月 新宿区教育委員会
この説明版がある四谷区民ホールから
四谷大木戸のあった四谷四丁目交差点方面を見ると、
下の写真のように見える。
大木戸の水番所の様子は
東京都水道歴史館の展示で見ることができる。
→ 東京都水道歴史館 (1) 江戸時代の上水道 – かわゆら
区民ホールの横は、玉川上水をイメージしているのか、
水が流れる空間が作られていた。
玉川上水は、四谷四丁目交差点、
四谷大木戸の水番所を終点とし、
この四谷区民ホールの横を通った後、
新宿御苑の横を通り、
甲州街道沿いにバスタ新宿方面へ向かっていく。
新宿御苑内には「玉川上水・内藤新宿分水」が流れ、
玉川上水を偲んで散歩道が整備されている。
ホール横の歩道の壁に、
玉川上水についての説明版が設置されていた。
玉川上水
玉川上水説明版(平成三十年三月 新宿区教育委員会)
玉川上水は幕府が江戸市中の拡大発展と人口の増加にともなう水不足を解消するために、承応二年(一六五三)から翌三年(一六五四)にかけて開削(かいさく)した水路である。
上水は多摩川の羽村(はむら)に堰(せき)を設けて取水(しゅすい)し、ここ内藤新宿の水番所までの四十三キロメートルは掘割で、ここより江戸市中へは地下に石樋(せきひ)、木樋(もくひ)といった水道管を埋設して給水した。また途中三十余ヶ所で分水され、武蔵野台地の新田開発に利用された。
工事は江戸の町人である庄右衛門(しょうえもん)、清右衛門(せいえもん)が請負い、川越藩主松平信綱(まつだいらのぶつな)が総奉行を、関東郡代伊奈忠治(かんとうぐんだいいなただはる)が水道奉行を命ぜられ、これを監督した。
玉川上水の工事は、途中幾多の困難に遭遇したが、川越藩士、安松金右衛門(やすまつきんえもん)の協力もあり、一年五ヶ月程という、短期間で完成した。
掘削りによってでた土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などをつくり(小金井など)、当時の江戸の人々の行楽の場所となった。
平成三十年三月 新宿区教育委員会