玉川上水を歩く (33) けやき橋西交差点から大橋

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

この記事で歩いた部分を青線で示した。地図はクリックすると拡大して見られる。

1日目は2019年2月18日。四谷大木戸を出発し、
玉川上水暗渠の上の緑道を笹塚まで歩いた。

2日目の2019年3月20日は、前回の終点、
新宿区笹塚「南ドンドン橋」を出発。
杉並区久我山の「岩崎橋」まで。

3日目の2019年3月24日は、
岩崎橋を出発、三鷹駅前の三鷹橋まで。

4日目の2019年3月31日は、
三鷹駅を出発、
桜を見ながら小金井橋まで歩いた。

この記事では
けやき橋西交差点から大橋までの写真を載せた。

けやき橋西交差点を出発
けやき橋西交差点の下へ潜っていく玉川上水

玉川上水の南側を西へ向かって歩き始めた。
上水の両側に道が整備されており、
玉川上水の土手には花が咲いて芽吹き始めた新緑も美しい。

けやき橋交差点近く
けやき橋西交差点近く

三月下旬。
上水脇の道路には花が植えられ華やかだ。

上水脇に植えられた花々。

上連雀の町会の掲示板には『めぞん一刻』の響子さん。
『めぞん一刻』の舞台は東久留米市あたりだが、
「三鷹さん」という登場人物も出てくる。
勿論人気漫画(アニメ)だった作品だが、
このあたりでは土地柄もあって特にメジャーなのだろうか?

町会の掲示板

上水脇の道は美しく整備されている。
もちろん禁止看板も健在だ。

上連雀の玉川上水緑道
禁止看板

禁止看板の前に野菜の無料販売所があった。
周囲は自然が豊かで治安も良いのだろう。

野菜と花の無料販売所

季節によっては筍も売っているようだ。

たけのこ販売の案内板

ほどなく橋と交差点が見えてきた。
玉川上水沿いの桜通りと新武蔵境通りが交わる場所で、
いちょう橋交差点。
だが手前に見えている歩道に架かる橋は「ぎんなん橋」だ。

ぎんなん橋と玉川上水
ぎんなん橋と玉川上水
いちょう橋交差点

この交差点では、
車道に架かる「いちょう橋」の横に、
歩道用の「ぎんなん橋」が架かっているのだ。

ぎんなん橋
「ぎんなん橋」と「いちょう橋」

ぎんなん橋は、新武蔵境通り沿いに設けられた
グリーンパーク遊歩道の一部になっているようだ。

グリーンパーク遊歩道
ぎんなん橋から下流を眺める
いちょう橋
いちょう橋から上流を眺める

いちょう橋から上流の玉川上水沿いは
桜橋が架かる武蔵境通りまでずっと
東京都水道局境浄水場の敷地となっている。
浄水場の入り口がいちょう橋を渡ったところにあった。

東京都水道局境浄水場
いちょう橋

玉川上水と浄水場の間を走る道は、
三鷹駅前から続いている「桜通り」。
その名にふさわしく桜の木が続いていた。

桜通りと桜の木
桜通りと桜の木
いちょう橋とぎんなん橋を振り返る

桜を見ながら桜通りを歩いて行くと、
説明版のある「大橋」という橋へ辿り着いた。

桜通り
桜通りと大橋
大橋の説明版と桜の木
大橋の親柱と説明版
大橋

   大橋の歴史について
 この橋は、玉川上水ができた承応三年(一六五四)以降に現在の武蔵野市域内で最初に架けられた「新橋」「保谷橋」「大橋」の内の一つとされる。
 その後、明治三八年(一九〇五)と大正九年(一九二〇)に修繕されたのち、昭和七年(一九三二)にコンクリート橋に掛け替えられた。
 大橋を通る大師道は、旧保谷市と旧田無市の境界を通る道と東伏見神社の横から千川上水を越えて武蔵野市に入る道が御門訴の碑付近で一つになり五日市街道を渡る道で、大正七年(一九一八)に境浄水場が出来るまで、西北は、田無を経て所沢・青梅に通じ、南は甲州街道の調布五宿に達し、開港後は横浜街道と称し、近郷近村の最大の便道であったとされる。また、深大寺(調布市)の元三(がんさん)大師堂へ行く道なので大師道とも呼ばれた。
 三鷹との境にあるので「境大橋」」とも呼ばれ、「大橋」の名の由来は、深大寺「大」の字をとったとも、旧下連雀村の小字名「大橋」という地名からきたともいわれている。
 この度、大橋の全面架替工事を行ったが、親柱は、修復を加えた昭和七年のものを残している。
参考文献「上水記」「玉川上水を歩く」「玉川上水 橋と碑と」ほか
   平成二九年三月   武蔵野市

大橋の説明版(武蔵野市)
大橋の説明版

説明文中の「御門訴の碑」は、
大師通りと五日市街道の交差点にある。
(武蔵野市八幡町3-8-1)

御門疎事件は、明治3(1870)年、
品川県が新設した貯穀制度に反対した武蔵野の農民たちが、
品川県庁へ直訴=御門訴した事件。
3名が犠牲となり、
慰霊碑は明治27(1894)年にたてられている。

大橋から眺めた玉川上水の下流方面

歴史ある橋は、古い時代の親柱を抱き、
桜の木に彩られて架かっているのだった。