玉川上水を歩く (35) 桜橋から境橋

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

この記事で歩いた部分を青線で示した。地図はクリックすると拡大して見られる。

1日目は2019年2月18日。四谷大木戸を出発し、
玉川上水暗渠の上の緑道を笹塚まで歩いた。

2日目の2019年3月20日は、前回の終点、
新宿区笹塚「南ドンドン橋」を出発。
杉並区久我山の「岩崎橋」まで。

3日目の2019年3月24日は、
岩崎橋を出発、三鷹駅前の三鷹橋まで。

4日目の2019年3月31日は、
三鷹駅を出発、
桜を見ながら小金井橋まで歩いた。

桜橋の南詰から緑道へ入っていくところ

この記事では、
国木田独歩の『武蔵野』に登場する桜橋を出発し
境水衛所跡を経て境橋に着くまでの写真を載せた。

桜橋と独歩橋の間

玉川上水の両岸は自然が豊かで、
丁度紅葉の木が新芽を伸ばし花を咲かせていた。

玉川上水土手の紅葉の木

桜橋の一つ上流に架かっているのが独歩橋。
もちろん国木田独歩にちなんだものだろう。

独歩橋
独歩橋
独歩橋と玉川上水緑道
独歩橋の下を流れる玉川上水

独歩橋の一つ上流に架かっているのが,うど橋。
うど橋は信号機がある比較的大きな交差点だ。

うど橋
うど橋
うど橋から見た玉川上水上流
うど橋から見た玉川上水下流
うど橋南詰から見た下流方面

うど橋の北に石碑があったが、何なのか不明。
せっかく場所を占拠して碑が立っているのだから、
読めるように何か書いて欲しいものだ。

うど橋横の石樋
うど橋の横には玉川上水緑道の地図もあった。

うど橋の横には送水管が通っており、
この先は玉川上水の南側が通行禁止になっていた。

うど橋南詰から見た玉川上水上流方面
北詰上流側から見た うど橋と送水管

玉川上水南岸が立ち入り禁止だったため、
うど橋から玉川上水の北岸の歩道を歩いた。

うど橋と境水衛所跡の間の玉川上水緑道

この辺りの緑道も、
木々の新芽と咲き乱れる花々でとても美しい。

うど橋と境水衛所の間の玉川上水緑道

境水衛所近くで餌を探すコサギを見かけた。
サギを見かけたのは笹塚以来だ。

境水衛所近くで見かけたコサギ

やがて、明らかに何か特別な設備を思わせる風景が見えてきた。
境水衛所跡だ。

境水衛所跡
境水衛所跡

玉川上水の横の道は相変わらず桜通り。

桜通りの看板
境水衛所跡

     境水衛所跡について

   水衛所 すいえいじょ(水番所 みずばんしょ)とは
 水衛所とは、江戸市中への水を確保するため、水番人(みずばんにん)と呼ばれる人が常駐していた場所です。水番人は、玉川上水に流れる水量の確認や周辺の巡回、流れてくる落ち葉の掃除などを行っていました。水衛所は、江戸時代には奉行の支配下におかれ、「水番所」と呼ばれていました。

   境水衛所について
 境水衛所は、明治維新後、東京市水道部(現在の東京都水道局)が管理することになったことから、明治27年に水番所を水衛所と名前を変え、引き続き職員(水衛)が常駐し、玉川上水の点検や清掃などを行っていました。その後、淀橋浄水場の廃止に伴い玉川上水への通水を停止したことから、境水衛所は昭和55年3月に廃止されました。水道局では、史跡である玉川上水をより身近に感じていただくため、境水衛所跡地を散策路として、平成24年度に整備しました。

   整備工事前の境水衛所跡
 境水衛所跡(昭和62年頃撮影:武蔵野市教育委員会から提供)

 昭和61年からは、東京都の清流復活事業により、小平監視所から浅間橋までの区間に下水高度処理水が流され、水辺空間が復活しています。

東京都水道局 説明版
境水衛所跡
境水衛所跡の千川上水取水堰と桜通り
境水衛所跡から上流方面を見る
境水衛所跡から下流方面を見る

北へ向かって千川上水の分水口がある。

境水衛所跡
千川上水の分水堰

水衛所跡の脇に、玉川上水の碑と説明版もあった。

玉川上水の碑と境水衛所跡

     国指定史跡 玉川上水
   江戸・東京の水道に果たした役割
 玉川上水は、羽村取水口から四ッ谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3(1654)年に完成しました。これにより、多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることとなり、江戸が大きく発展することができました。
 その後、明治31(1898)年に完成した淀橋浄水場(今の新宿区)への水路として、昭和40(1965)年に同浄水場が廃止されるまで、利用されていました。
 現在も羽村取水口から小平監視所までは、現役の水道用の水路として、都民の生活を支えています。

   貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値
 玉川上水は、約43kmの区間を約92mの標高差(100mでわずか約21cmの高低差)を利用して、水を流すように設計された長大な土木施設・遺構です。
 特に、小平監視所から浅間橋までの中流部には、開削当時の素掘りの水路・法面(のりめん)が多く残され、往時の姿を今日に国木田独歩伝えています。
 玉川上水は、近世の水利技術を知る上で重要な土木施設・遺構であることから、平成15(2003)年8月,開渠(かいきょ)区間約30kmが国の史跡に指定されました。

   玉川上水と国木田独歩
 玉川上水は多くの文人に愛され、各地に文学碑やゆかりの場所が残っています。
 明治期の小説家・詩人である国木田独歩もその一人です。
 写真は、現在地から約600mほど下流の桜橋付近にある国木田独歩の石樋です。
 石樋には、代表作である『武蔵野』の第六章の書き出しが刻まれており、独歩が玉川上水付近を散策した様子をうかがい知ることができます。

 昭和61(1986)年からは、東京都の清流復活事業により、小平監視所から浅間橋までの区間に下水高度処理水が流され、水辺空間が復活しています。
 玉川上水に関する情報は https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/ でご覧いただけます。

東京都水道局 玉川上水説明版
東京都環境局自然環境部水環境課の説明版

     清流の復活 ―玉川上水―
 玉川上水は江戸時代の承応2年(1653)年、人口が急増した江戸の飲料水確保のために作られた水路です。この上水は、江戸市中への飲料水の供給という目的以外に、武蔵野台地の各地に分水されて飲料水・かんがい用水・水車の動力などに利用され、武蔵野の発展に大きな役割を果たしました。水路は明治時代以降も淀橋浄水場(新宿区)への導水路として使われていましたが、新宿副都心計画による淀橋浄水場の廃止により、昭和40(1965)年以降、小平監視所より下流は水の流れが途絶えました。
 その後、多摩川上流再生センターで高度処理された再生水を利用した東京都の「清流復活事業」によって、昭和61(1986)年8月から、玉川上水の小平監視所より下流側に再び清流がよみがえりました。

 玉川上水は、高い歴史的価値を持ち自然豊かな憩いの空間であることから、東京における自然の保護と回復に関する条例に基づき「玉川上水歴史環境保全地域」に指定されています(羽村取水口から四ッ谷大木戸までの区間のうち開渠区間)。玉川上水歴史環境保全地域では、貴重な植物を採る、他の地域の生物を放す、植物を植えるなどの行為はしないよう、水と緑の豊かな環境を大切にしましょう。

東京都環境局自然環境部水環境課の説明版
五日市街道
桜通りが五日市街道にぶつかるところ

境水衛所跡のすぐ上流で、
三鷹駅前から続いていた桜通りは五日市街道にぶつかる。
ここが桜通りの西の端になるようだ。
そして五日市街道は都道123号の交差点し、
そこに境橋が架かっている。

境橋
境橋
境橋交差点
境橋から見た玉川上水下流
境橋から見た玉川上水上流

境橋のたもとに小さな碑が埋まっていた。
文字の部分まで埋まっていたが、
これは国指定名勝「小金井(サクラ)」の起点として
境橋と小川水衛所跡の岸にある境界石だ。

名勝境界の碑

ここから上流の玉川上水は五日市街道の横を流れている。
当分、五日市街道を歩くことになる。

境橋交差点

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