玉川上水を歩く (32) 三鷹駅からけやき橋

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

1日目は2019年2月18日。四谷大木戸を出発し、
玉川上水暗渠の上の緑道を笹塚まで歩いた。

2日目の2019年3月20日は、前回の終点、
新宿区笹塚「南ドンドン橋」を出発。
杉並区久我山の「岩崎橋」まで。

3日目の2019年3月24日は、
岩崎橋を出発、三鷹駅前の三鷹橋まで。

4日目の2019年3月31日は、
三鷹駅を出発、
桜を見ながら小金井橋まで歩いた。

この記事では三鷹駅北口を出発し、
けやき橋西交差点までの写真を載せた。

この記事で歩いた部分を青線で示した。地図はクリックすると拡大して見られる。

玉川上水は三鷹駅北口のロータリー横から駅の下へ潜り込む。
三鷹駅横のこの部分は玉川上水の水を使って
公園のように整備されていた。

三鷹駅北口の玉川上水が地下へ潜っていく場所

三鷹駅横の起点には玉川上水緑道の地図が設置されていた。

三鷹駅横の玉川上水緑道の地図
三鷹駅北口横の玉川上水の公園

外の車道や歩道と分けられ綺麗に整備されていたが、
公園の名前などはわからなかった。
公園内を流れる水の量は玉川上水にしては少ないが、
地図ではこれが玉川上水と書かれている。
玉川上水の本流はこの流れの下を通っているのだろう。

玉川上水が三鷹駅の下へ潜っていく部分

公園はごく短い部分のみで、
階段を上り歩道は桜通りと合流する。

三鷹駅横の玉川上水の公園

玉川上水の横の桜通りは文字通り桜並木の通りで、
3月30日のこの日は2~3分咲きくらい。

桜通り

ほどなく桜通りと三鷹通り(都道121号)の大きな交差点に辿り着いた。
大きな交差点だが交差点名はわからない。
三鷹通りの上を中央線の高架が通っていた。
またここに架かっていた橋の名前もわからなかった。
昭和52年7月に架けられたようだ。

桜通りと三鷹通りの交差点の橋
三鷹通りの上を通る中央線

この交差点から先は、玉川上水の周囲は公園ではなく、
通常の開渠の横の緑道となる。

三鷹通りより上流の玉川上水


玉川上水の南岸の遊歩道を歩くべく広い交差点横切ると、
緑道の入り口に祠のようなものを発見。
いそいそと見学に向かった。

三鷹通りの玉川上水緑道入り口と庚申供養塔
石造庚申供養塔
石造庚申供養塔

祠は三鷹市指定文化財の庚申供養塔だった。

石造庚申供養塔の説明版

   三鷹市指定文化財
   石像庚申供養塔(せきぞうこうしんくようとう) 

  種   別  重宝
  年   代  亨保14年(1729)
  指定年月日  昭和53年(1978)5月8日
  所 在 地  三鷹市上連雀1-2-1

 庚申信仰は中国から伝わり、平安時代の貴族社会に行われた。その後庶民の間に伝わった。近世になると、農村社会に庚申講が広まり庚申供養塔が建てられた。
 これは庚申塔の建立が盛んなころのものである。
 農村が安定した時期で、人々の生活を反映しているかのように塔型も整っている。

  平成4年(1992)7月31日   三鷹市教育委員会

三鷹市教育委員会 石造庚申供養塔説明版
石造庚申供養塔
石造庚申供養塔
石像庚申供養塔と玉川上水緑道

庚申供養塔の見学を終え、
玉川上水を遡って緑道を歩き始める。

三鷹通り付近の玉川上水
三鷹通りと石像庚申供養塔を振り返る
三鷹通りの下へ潜っていく玉川上水

玉川上水の北は三鷹駅前から続く桜通りが続いている。

桜通り
桜通り

桜通りはフォトジェニックな美しい道だった。

桜通り

桜通りはずっと玉川上水の北を走っているが、
一旦南から来る別の道と交わって大きな交差点となり、
交差点には「けやき橋西」という名前が付いていた。

けやき橋西交差点

この交差点に架かっている橋が
(橋といっても道路の一部のようでわかりにくい)
けやき橋なのかもしれないが、
交差点名が「けやき橋西」なので、
三鷹通りの橋がけやき橋なのかもしれない。
橋名らしいものも見つけられず分からなかった。

けやき橋西交差点から見た玉川上水
けやき橋西交差点から見た玉川上水

玉川上水を歩く (31) 三鷹橋と旧三鷹橋

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

1日目の2019年2月18日、四谷大木戸を出発し、
玉川上水暗渠の上の緑道を笹塚まで歩いた。

2日目の2019年3月20日は、前回の終点、
新宿区笹塚「南ドンドン橋」を出発。
杉並区久我山の「岩崎橋」まで歩いた。

3日目の2019年3月24日は、
前回の終点、岩崎橋を出発し、
三鷹駅前の三鷹橋までを歩いた。

この記事では風の散歩道の西端、
三鷹駅南口にある三鷹橋の写真を載せた。

三鷹橋の位置を青い円で示した。地図はクリックすると拡大して見られる。

JR三鷹駅南口のロータリー横、
駅の下を流れてきた玉川上水が地上に現れる。
ここに架かっているのが三鷹橋だ。

三鷹駅と三鷹橋と玉川上水
三鷹駅と三鷹橋と玉川上水

三鷹橋の袂には、
旧三鷹橋の親柱と高欄が残されている。

旧三鷹橋

親柱には「昭和三十二年六月竣功」の文字。

旧三鷹橋の親柱と井戸のポンプ

地上へ現れた玉川上水の水面が見える。
「人喰い川」だった面影はなく、
静かで穏やかな流れだ。
三月下旬、土手にはスミレが咲いていた。

三鷹橋付近の玉川上水

旧三鷹橋の横に説明版が立てられていた。

旧三鷹橋 説明版

旧三鷹橋
親柱、高欄
 玉川上水は承応2年(1653年)に当時の江戸市中に飲料水を送るために43kmにわたって開削された水路です。
 明治初期には物資を輸送する為の通船があり、この近くにも船着き場があったとも伝えられていますが、衛生上の理由などから2年間で廃止されたといわれています。
 三鷹橋は昭和32年(1957年)6月に架けられ、構造材の一部に鉄道のレールを活用していましたが駅前広場の整備に伴い、平成17年(2005年)3月に旧三鷹橋の親柱、高欄のデザインを活かして架け替えられたものです。
 ここに旧三鷹橋の一部を保存し架け替えの記念といたします。
平成18年(2006年)3月   三鷹市

旧三鷹橋説明版 三鷹市

また、東京都水道局により、
玉川上水についてと、
三鷹市と玉川上水に縁ある太宰治についての
説明版も用意されていた。

玉川上水の説明版

   国指定史跡 玉川上水

   江戸・東京の水道に果たした役割
 玉川上水は、羽村取水口から四ッ谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3(1654)年に完成しました。これにより、多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることとなり、江戸が大きく発展することができました。
 その後、明治31(1898)年に完成した淀橋浄水場(今の新宿区)への水路として、昭和40(1965)年に同浄水場が廃止されるまで、利用されていました。
 現在も羽村取水口から小平監視所までは、現役の水道用の水路として、都民の生活を支えています。

   貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値
 玉川上水は、約43kmの区間を約92mの標高差(100mでわずか約21cmの高低差)を利用して、水を流すように設計された長大な土木施設・遺構です。
 特に、小平監視所から浅間橋までの中流部には、開削当時の素掘りの水路・法面(のりめん)が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。
 玉川上水は、近世の水利技術を知る上で重要な土木施設・遺構であることから、平成15(2003)年8月、開渠(かいきょ)区間約30kmが国の史跡に指定されました。

   玉川上水と太宰治
 玉川上水は、数多くの文人に親しまれてきました。
 昭和14(1939)年から同23(1948)年まで三鷹に暮らし、「走れメロス」や「東京八景」などの名作を発表した太宰治もその一人です。
 付近には、太宰の旧居跡など、ゆかりのある場所が数多残っています。
 また、当時の玉川上水は、現在に比べ、水が豊富に流れていたことが写真からもうかがえます。

 昭和61(1986)年からは、東京都の水流復活事業により、小平監視所から浅間橋までの区間に下水高度処理水が流され、水辺空間が復活しています。
 玉川上水に関する情報は https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/ でご覧いただけます。

三鷹橋の玉川上水説明版(東京都水道局)
旧三鷹橋の親柱と高欄
旧三鷹橋と風の散歩道
旧三鷹橋モニュメント
旧三鷹橋モニュメントと三鷹橋

新しい三鷹橋は旧三鷹橋のデザインを取り入れて造られたのだそうだ。
確かに欄干に並んだアーチがよく似ている。

三鷹橋
三鷹橋とJR三鷹駅
三鷹橋と風の散歩道
現在の三鷹橋 親柱と高欄