東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。
玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。
羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。
→ 玉川上水を歩く Index
四谷大木戸を出発。
新宿御苑の横を通り過ぎ、新宿駅を通り抜け、
葵橋跡を眺め、西新宿の高層ビル前を通り、
玉川上水を遡る。
新宿から笹塚までの玉川上水は暗渠になっており、
暗渠の上は「玉川上水旧水路緑道」として整備されている。
代々木地区・初台地区を通り過ぎ、
西原地区の幡ヶ谷緑道を通り、
玉川上水に架かっていた橋の跡を次々と通り過ぎる。
西原地区に入って
新台橋・西代々木橋・二字橋を通り、
次に美寿々橋(みすすはし)と山下橋(やましたばし)を通る。
どちらの橋も歴史や名前の由来はわからなかった。
山下橋には「1993年12月」というプレートがついていた。
暗渠に架かる橋とはいえ、本当に橋なのだ。
山下橋には以前の古い橋の一部が残されており、
水車を模した橋のデザインについて説明があった。
玉川上水は、江戸時代から私たちに限りない恵みとうるおいを与えてくれました。当時は、上水の余水を利用して水車が動き、人々の生活と強く結びついていました。ここ山下橋に人と水のふれあいが水車によって再現されています。
山下橋の碑
渋谷区
山下橋の次にあるのが西原2丁目の代々幡橋。
この橋は『上水記』に「延寿橋」と記されており、
明治3年(1870年)の記録で「延寿橋」、
明治39年(1906年)の記録で「代々幡橋」。
『上水記』(1791年/寛政3年)は、
江戸上水の幕府公式記録。
玉川上水開削から137年後の寛政3年(1791年)に、
徳川幕府普請奉行(ふしんぶぎょう)上水方、
石野広通(いしの ひろみち)によって作られた。
主に神田上水と玉川上水の建設が記録されており、
天明8年(1788年)から3年がかりで3部作成されている。
「代々幡」は「代々木」と「幡ヶ谷」の地名からで、
明治時代にこのあたりは代々幡村だったとのこと。
代々幡橋には花菖蒲のデザインがあしらわれている。
山下橋と同じく、古い橋の一部が脇に残されていた。
しかしこれは何と読むのだろうか?
古名の「延寿橋」ではないし、「代々幡橋」で良いのだろうか?
このあたりの玉川上水旧水路緑道にも、
気をつけていると水道用地を示す支柱が度々埋め込まれている。