源氏物語 —与謝野晶子と大和和紀

源氏物語の概要

  • 著者 紫式部(973?〜1031?/本名:藤原香子(かおるこ/たかこ/こうし/よしこ)
  • 文献初出 1008年(寛弘五年)
  • 巻 全54帖

 『源氏物語』が日本の古典中の古典であるということは自明であり日本人なら誰でも知っていることであろう。大和和紀氏による『あさきゆめみし』により少女漫画になっているため,一読したことがある人も多いと思う。
 私も若い頃に『あさきゆめみし』を2回ほど通読した。

 しかし,若い頃の感性では,『源氏物語』は光る君という色好みのプレイボーイと何故か彼に逆らえない女性達のメロドラマくらいにしか思えなかった。1000年もの間,数々の著名な国文学者たちを魅了してきた作品だというのに私には魅力が全くわからなかったのだ。

 だが,『源氏物語』には人生の全てが詰まっていると聞く。
 また,百人一首の選者である藤原定家の父親であり,定家と共に歌の家,御子左家の絶頂期を築いた藤原俊成が断言したそうだ。「源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり」(『六百番歌合』の判詞)と。
 『源氏物語』を通り一遍な恋愛物語として読み捨てていてはダメだ。
 そして日本人に生まれながら『源氏物語』を知らないなんて,もったいなすぎることではないか?

 文学に疎く,恋愛にも興味が無い私が『源氏物語』の中に折り込まれた人生の機微を感じ取るには,何度も様々なアプローチをしていくほかないであろう。

 そう考えて,まずは『あさきゆめみし』を通して再読し,『与謝野晶子の源氏物語』を通読し,もう一度『あさきゆめみし』を読んでいる。このあと瀬戸内寂静『すらすら読める源氏物語』で原文にふれつつ解説を読んでみようと思っている。


源氏物語 あさきゆめみし 完全版 (全10巻) Kindle版

与謝野晶子の源氏物語

 源氏物語を現代語訳で通読するならこの本が良いとたまたまSNSでどなたかが書いているのを見かけたので,本書を読むことにした。


与謝野晶子の源氏物語 (全3巻) Kindle版

 序文で上田敏と森林太郎(鴎外)が源氏物語の現代語訳を書くに相応しい人物として与謝野晶子ほどの適任はいないと断じ,大成功の翻訳であると評している。古典に通じている明治時代の大文学者たる彼等がこう書くのだから,間違いない現代語訳と思われた(その上田敏の序文の文体が非常に流麗であることにも大変感動した)。

 本文に入るとまず桐壺更衣を愛した帝が二十歳そこそこであったことを知り,そうだったのかと思った。ものの数ページで桐壺更衣は亡くなり,更衣の母君も亡くなってしまう。
 空蝉と六条の人と夕顔との恋の頃は,源氏の君はまだ十六歳。若くて見境が無くても仕方がなかったのかもしれない。夕顔は十九歳,六条は二十四歳だ。

 瑠璃様(玉鬘の君)の素性を内大臣に話し,瑠璃様の裳着の儀を行う29帖,行幸(みゆき:源氏36歳冬-37歳春)までが上巻に収められている。
 尚侍を目指していた近江の君は,新しく見つかった姫君の方が有利と気がつきがっかり。近江の君をからかって楽しんでいる内大臣…という場面でこの巻は終了。

 古典の雰囲気を損なわず,しかも大変分かりやすい現代語訳であった。


 中巻は,30帖 藤袴(ふじばかま/源氏37歳秋)〜 47帖 総角(あげまき/薫24歳秋冬)まで。

 藤袴(30帖)では葵の君の母親である大宮が亡くなる。真木柱(31)で瑠璃様は右大将と結婚。梅枝(32)で明石の姫君の裳着。藤裏葉(33)で夕霧と雲居の雁が結婚し明石の姫君が入内,源氏の君は准太上天皇へ昇格する。

 若菜(34)は『源氏物語』最長の巻とのことで,盛りだくさんだ。
 朱雀院の出家と女三の宮の降嫁,明石の女御の出産,冷泉帝の譲位。紫の上は出家を願いはじめ,37歳の厄年で病に倒れる。紫の上の看病で源氏が留守の六条院では柏木が女三の宮と密通。柏木は心痛のあまり病に伏し,一条の実家へ戻る。

 柏木(35)で,宇治十帖の主人公となる薰が誕生。女三の宮は出家し,柏木は絶望して世を去る。横笛(36)では夕霧が柏木の未亡人である落ち葉の宮を訪ね恋に落ちていく。落葉の宮の母一条御息所より柏木の横笛を贈られた夕霧は,源氏の君にそれを見せ柏木の遺言を果たす。

 鈴虫(37)は女三の宮を手放せずにいる源氏の君や母の死霊に心を痛める秋好中宮のこと。夕霧(38)では落葉の宮の母が亡くなり,朝帰りの夕霧と雲居雁が険悪に。

 御法(39)で紫の上の法華経千部の供養。幻(40)で源氏の君は52歳。紫の上の一周忌を済ませ出家の準備をする。雲隠(41)は無言の章ということだ。


 そして物語は,源氏の君の時代の人々が世を去って,明石の姫君が中宮であられる時代。

 匂宮(42)で,光源氏亡きあとの夕霧・冷泉院・匂宮・薰・花散里・女三の宮(尼宮)の消息が語られる。紅梅(43)は,故致仕大臣(頭中将)の次男である按察大納言と真木柱の君の一家の事情。
 竹河(44)は,髭黒太政大臣の亡き後,二人の姫君の処遇に悩む瑠璃様のこと。冷泉院のもとへ行った大君は苦労し,今上帝に出仕した中の君は幸せに。


 橋姫(45)は薫の君が20〜22歳で,「宇治十帖」物語の始まり。宇治で俗聖として暮らす桐壺院の八の宮を慕わしく思い訪問し始める薰は,老女房の弁と知り合い自らの出生の秘密を知る。また,薰から宇治の姫君の話を聞いて匂宮も宇治の姫君に興味を示す。

 椎本(46)は,宇治の夕霧の別荘(平等院がモデルらしい)で弦楽の夜を楽しむ匂宮や薰。宇治の姫君へ文を書く匂宮。八の宮の死。薰と匂宮それぞれの恋の始まり。
 総角(あげまき 47)は八の宮の一周忌。大姫(あげまきの君)を想う薰,小姫と薰を結ばせたい大姫,小姫に恋い焦がれる匂宮。各々の感情のすれ違いがもどかしい巻。匂宮は身分柄身動きが取れず,あげまきの君は妹を心配したまま息を引き取る。


 下巻は,第48帖の早蕨(さわらび)〜宇治十帖の最終帖,第54帖の夢浮橋(ゆめのうきはし)まで。

 匂宮は実に好きになれず読んでいてストレスがたまるほどだった。まさか源氏の君以上の好色鬼畜がいたとは!? 紫の上を慕っていた子供の頃は可愛かったのに…。
 穏やかですぎる薰にもどうにかしたらと思うことはあるものの,薰は匂宮の百倍くらい好感が持てるし,『源氏物語』の男性登場人物の中では最も堅実で好感が持てる人物のように思う。

 早蕨(さわらび 48)では宇治の中君が匂宮の二条院へ迎えられる。
 宿木(やどりぎ 49)では薰の君と女二の宮,匂宮と夕霧の六の君が結婚。あげまきの君を忘れられない薰は中君に想いを寄せるようになり,困った中君は浮舟の話をし,薰はあげまきの君に似ている浮舟を妻に迎えたいと思い始める。

 東屋(50)は,主に浮舟の実家の話。浮舟(51)では宇治に住まわされていた浮舟が匂宮に見つかって結ばれてしまい,薰の知るところとなる。
 蜻蛉(52)では浮舟を失った人々が悲しみに暮れ,手習(53)で浮舟は僧都の母尼と妹尼の一行に救われる。浮舟は比叡山の小野の庵で暮らすようになり,やがて明石の中宮の知るところとなり,薰の君にも伝わってしまう。夢浮橋(54)で浮舟は薰の君からの文に返事できずただひたすら泣き続け,薰は恨めしく悲しく思う。

 実に中途半端と思える場面で唐突に『源氏物語』は幕を閉じる。
 歴代の注釈者は,これに一体どのような解釈を施したのだろうか。


 後書きで与謝野晶子は,『源氏物語』は日本の古典の中で彼女が最も愛した書であり,この本を味解することに多大な自信を持っていると記している。
 また従来の注釈本の全てに敬意を持ってはいないし,『湖月抄』(北村季吟)のことを「杜撰の書」となどと書いている。有名な『湖月抄』を杜撰と断じていることに少々驚いた。

 桐壺以下の数帖は全訳の必要を認めなかったため多少の抄訳を試みたが,中巻以降はほとんど全訳したとのことだ。


 与謝野晶子の後書きの後ろに,更に神野藤昭夫(かんのとうあきお)氏による解説があり,ここで紫式部や彼女が使えた中宮彰子について,またこの本の出版についてなど様々な情報が書かれている。

 各々の帖に挿絵が挟まれていたが,これについての解説もあった。
 この角川ソフィア文庫の『与謝野晶子の源氏物語』の挿絵は,本書が最初に出版されたときの中沢浩光による絵ではなく,日本画家の梶田半古(かじたはんこ 1870〜1917)による彩色版画ということだ。大変美しい挿絵で毎回,帖の最初のページを開くのがたのしみだった。


 『与謝野晶子の源氏物語』を読み終わってから,もう一度『あさきゆめみし』を読み返すと,匂宮が素敵すぎることに驚いた。奴はもっと鬼畜である!
 大和和紀さんがどれほど原作をきっちり確実に読み込んで消化し,少女漫画にふさわしい解釈を施して『あさきゆめみし』という作品を紡ぎ出されたのかを感じ,凄いなと思ったのだった。

読書日記ランキング

贅沢貧乏

  • 出版社:新潮社
  • 発売日:1978/4/1
  • 著 者:森茉莉

著者の創作の舞台裏である愛猫とふたり(?)の珍妙なアパート暮しのようすを軽妙な筆致で、自由に綴る批評的自画像。見かけだけ贅沢で、実は、内容の寒々としている現代風の生活に、侮蔑をなげつけながら、奔放豪華な夢を描く連作長編「贅沢貧乏」。ほかに、著者の目にうつる文壇をその鋭い洞察力で捉え、パロディ化した「降誕祭パアティー」「文壇紳士たちと魔利」など全5編を収録。

新潮社 書籍情報

本の内容

  1. 贅沢貧乏 (昭和35年6月〜38年2月)
     I 贅沢貧乏
     II 紅い空の朝から……
     III 黒猫ジュリエットの話
     IV マリアはマリア
  2. 青い栗 (昭和36年6月)
  3. 気違いマリア (昭和42年12月)
  4. 降誕祭パアティー (昭和39年5月)
  5. 文壇紳士たちと魔利 (昭和42年9月)

お嬢様育ちの森鴎外の娘

 軍医(陸軍中将)であり文学者として著名な森鴎外の長女。鴎外に溺愛されお姫様然として召使いに世話をされて少女時代を送った彼女。離婚を経て鴎外没後は,一人,世田谷の安アパートで暮らしていた。

 見かけは変な婆さん。しかし,育ちの良い彼女の心は少女のままで純真だ。
 貧乏といえど,好きなものに囲まれ好きな物を愛でて好きなように暮らすこだわりは完璧だった。こだわること以外は一切気にしない気質も完璧だった。


 国文学者の島内裕子博士は,森茉莉のことを「清少納言以来1000年に一度の随筆家」と評しておられる。
 彼女の奔放な筆は確かに比類ない個性を放っている。
 愛する身のまわりの雑貨たちの描写は秀逸だ。


アネモオヌの色は、魔利を古い時代の西欧の家に 誘ってゆき、花の向うの銀色の鍋、ヴェルモットの空壜の薄青、葡萄酒の壜の薄白い透明、白い陶器の花瓶の縁に止まってチラチラと燃えている灯火の滴、それらの色は夢よりも弱く、幻よりも薄い、色というものの影のようにさえ、思われる。魔利は陶然となり、文章を書くことも倦くなってしまうのだ。 

贅沢貧乏 I 贅沢貧乏

悪びれぬ風刺

 どんな暮らしをしていようと御令嬢であり続けた彼女は,例えば同じアパートに住む主婦の女性たちに,全くもって,ほんの雀の涙ほどの共感も持てないし,彼女たちを心底つまらないと思っている。
 それを隠そうともせず悪びれもせず書いた文章は,なかなか小気味よい。スカッとした気分になる。

 森茉莉本人の価値観は,ここにどこまで投影されているのか。
 その通りの人物であったようにも見聞きするが,ともかくそういう自分をメタな視点から冷静に分析し,牟礼魔利(むれまりあ)なる人物に投影して客観的に書いている。これだけ自分を高みに置いて「庶民」を愚弄しているというのに嫌味を感じないのは,だからだろうか。


大体牟礼魔利や野原野枝実は馬鹿かも知れないが愉快な人間なのである。日本では愉快な人間というものを解さない。人間は制服を着たように同じでなくてはいけなくて、又実に皆よく似ている。アパルトマンの主婦たちを見ると、頭の中も髪の縮れかたも、スカアトも、同じで、「お暑くなりました」「よく降ります」「寒くなると心細いわねえ」「お菜が高いわねえ」「お宅じゃお餅黴びない?」「もうお花が咲くわねえ」これが毎年毎年、一言半句も違わない。子供を見れば「可愛いわねえ」と言い、言われた方は「きかないんですよ」と答える。

贅沢貧乏 III 黒猫ジュリエットの話

又不思議なのは、十人が十人、二十人が二十人、銭湯にくる女の入浴の仕方が、顔の洗いかたから足の踵の洗い方まで、全部が、相談したように同じなことである。これはマリアが、白雲荘に住んでみて判ったことだが、彼ら庶民というのは朝起きるから、夜寝るまでの生活が万事、一人の例外もなく同じであり、考えることも同じ、従って話題も全員全く同じで、かくて元旦の夜明けから大晦日の鐘の鳴るまで、一年間、すべて同じに行動するのであって、その一年は又次の一年と勿論同じであるから、つまりはかれら庶民はすべて同じの一生を送るのである。

気違いマリア

 何だかんだと言っても,世間に大いに興味を抱いて雑誌という雑誌を熟読し多くの有名人の生活を把握しまくっていた彼女は鋭い観察眼を持っていた。

 下の一文など今の日本人に対して言ってもそのまま通用する。思わず笑ってしまった。
 令和の現代でも,用語を詰めた日常語は日々止めどなく生まれている。挙げ始めたら切りがなく,日本語の日常的単語はほとんど略語に置き換わりつつあるのではと思うほどだ。
 リストラ? 花金? 合コン? シャーペン? イケメン? リケジョ? バエ? JK? とりま? タイパ? り?!…そういう単語を見聞きするたびに何でも短くすれば良いと思っているのではと私自身よく思う。

 そうか,宇宙時代のめまぐるしさに間に合うためだったのか。


= いつからキリスト教信者がキリスト者になったのか、日本人はすべての用語を詰めることで、宇宙時代のめまぐるしさに間に合うと信じているらしい =

文壇紳士たちと魔利

 独特の感性で周囲を眺め,それを遠慮なき筆で書き綴る。
 今時使われない漢字や単語が多出し,やたら長い説明の括弧書きが多く,時に何の話だったか見失うほど読みにくくもあるが,それでも突拍子もない世界への興味から不思議と目が離せぬ。

 アララギ派と浪漫派に分かれた文壇をまとめようと尽力した鴎外の娘ということもあってか,森茉莉は文壇での顔が広かったようで(人の顔は覚えられないようだが)昭和前半に活躍した作家たちが本名や偽名で登場する。
 中でも室生犀星への愛情がひときわ印象的で,犀星の作品を続けて読み始めたくなる書き終わりであった。


何故犀星は、他の人間と同じに、精神と肉体との死を、不思議な、美しい生命の停止を、迎えなくてはならなかったのだろう。つねに決して深刻にならない魔利を、どこか大真面目に、深刻らしくしてしまうのは、永遠に美を書かなくてはいけない、犀星の死である。 

文壇紳士たちと魔利

文壇の人々

 当代の多くの作家のことが仮名や実名で書かれていた。
 この書籍は長い期間に書かれた作品の寄せ集めなので,書き始めの頃はまだ室生犀星が存命していたからだろうか,室生犀星は前半は甍平四郎という名前で,後半は本名で登場する。

 自分自身のことは終始,牟礼魔利(むれまりあ)としているし,親交の深かった萩原朔太郎の娘,萩原葉子のことは野原野枝実と記している。

 吉行淳之介や北杜夫などは漢字を変えてあったり,そのままだったり。
 誰が誰だか文壇に詳しい方なら分かるだろうが,それを分かりやすくまとめたサイトなどは見つけられなかった。どなたか解説して下さらぬものか。
 特定できたのは下記五名。

  • 牟礼魔利 森茉莉
  • 甍平四郎 室生犀星
  • 真島与志之 三島由紀夫
  • 野原洋之介 萩原朔太郎
  • 野原野枝実 萩原葉子

魔利を書いた本

 群ようこが森茉莉のことを書いた本があることを知った。
 合わせて読んでみると森茉莉の世界が見えてきそうである。

  • 出版社:KADOKAWA
  • 発売日:2001/12/14
  • 著 者:群ようこ

昭和62年、安アパートの自室でゴミの山に埋もれて孤高の死を遂げた作家森茉莉。父森鴎外に溺愛された贅沢な少女時代。結婚、渡仏、離婚などを経て自立。54歳で作家となり、独得の耽美な小説世界を発表した後半生の貧乏ぐらし―。「精神の贅沢」を希求し続けた84年の生涯の頑なで豊かな生き方を、人気作家群ようこが憧れとため息をもってたどっていく全く新しいタイプの人物エッセイ。 –

「BOOK」データベースより
読書日記ランキング