玉川上水を歩く (12) 幡ヶ谷緑道~大山緑道

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

四谷大木戸を出発。
新宿御苑の横を通り過ぎ、新宿駅を通り抜け、
葵橋跡を眺め、西新宿の高層ビル前を通り、
玉川上水を遡る。

新宿から笹塚までの玉川上水は暗渠になっており、
暗渠の上は「玉川上水旧水路緑道」として整備されている。

代々木地区・初台地区を通り過ぎ、
西原地区の幡ヶ谷緑道を通り、
玉川上水に架かっていた橋の跡を次々と通り過ぎる。

幡ヶ谷駅から西の西原地区は長い。
新台橋・西代々木橋・二字橋、
そして美寿々橋・山下橋・代々幡橋。

多少の遊具などが配置された幡ヶ谷緑道を西へ向かう。

幡ヶ谷緑道の遊具
幡ヶ谷緑道

次に通るのは、
幡ヶ谷1丁目の相生橋(あいおいばし)だ。

相生橋(あいおいばし) 渋谷区幡ヶ谷1丁目
相生橋(あいおいばし) 渋谷区幡ヶ谷1丁目

古い石の欄干は風化し削られ、
「相生橋」という文字も消えかかっているが、
「大正十三年十一月」の文字はまだ鮮明。
現在残っているのは大正13年、1924年の橋なのだ。

相生橋(あいおいばし) 渋谷区幡ヶ谷1丁目

緑道は常盤橋で幡ヶ谷緑道から大山緑道に変わるが
幡ヶ谷緑道の一番端には東京消防庁消防学校があり、
緑道から訓練の様子がよく見える。
幡ヶ谷緑道から消防学校

幡ヶ谷緑道から見た東京消防庁消防学校の訓練の様子

常盤橋(ときわはし)が幡ヶ谷緑道と大山緑道の境目になっている。

幡ヶ谷緑道から見た常盤橋

常盤橋(ときわはし)はのモニュメントは見るからに新しく、
「1990年3月」の名盤が打ち込まれているが、
明治39年(1906年)の記録に名前が残っているそうだ。

常盤橋(ときわはし)
常盤橋の名盤
常盤橋(ときわはし) 渋谷区(幡ヶ谷/大山)
常盤橋(ときわはし) 渋谷区

玉川上水旧水路緑道は常盤橋を過ぎると大山町地区になり
愛称も大山緑道にい変わる。

玉川上水旧水路緑道 大山町地区 を示す看板

幡ヶ谷駅の南あたりから南西に進路を変えていた緑道だが
常盤橋あたりからはほぼ南へ向かってまっすぐに進む。

玉川上水旧水路緑道 大山町地区

緑道の中には何か水道設備と関係していそうな建造物。

玉川上水旧水路緑道 大山緑道

次の橋は、葉っぱ模様があしらわれた六條橋(ろくじょうばし)。
それから幾何学模様のような五條橋(ごじょうばし)。
そして磨かれた石がモダンな四条橋(しじょうばし)が続く。

六條橋(ろくじょうばし) 渋谷区
六條橋(ろくじょうばし) 渋谷区
五條橋(ごじょうばし)渋谷区
五條橋(ごじょうばし) 渋谷区
四條橋(しじょうばし) 渋谷区
四條橋(しじょうばし) 渋谷区

これらの橋には過去の橋の碑も残っておらず
明治時代の記録にも残っていないとのこと。
最後の明治の記録(明治39年/1906年)以降、
暗渠化される前に架かっていた橋のモニュメントと推察される。

五條橋と四條橋の間には
都道420号と緑道脇の車道との五條橋交差点があり、
緑道は四條橋で都道420号と接する。

都道420号を渡って大山緑道方面を振り返る。

南へ向かっていた玉川上水は、
都道420号を渡った後、
大きく進路を変えて北東へ向かう。

水路の南は坂で、
玉川上水は尾根に沿って進んでいるため、
ここで進路が変わるのだ。

玉川上水を歩く (11) 美寿々橋・山下橋・代々幡橋

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

四谷大木戸を出発。
新宿御苑の横を通り過ぎ、新宿駅を通り抜け、
葵橋跡を眺め、西新宿の高層ビル前を通り、
玉川上水を遡る。

新宿から笹塚までの玉川上水は暗渠になっており、
暗渠の上は「玉川上水旧水路緑道」として整備されている。

代々木地区・初台地区を通り過ぎ、
西原地区の幡ヶ谷緑道を通り、
玉川上水に架かっていた橋の跡を次々と通り過ぎる。

西原地区に入って
新台橋・西代々木橋・二字橋を通り、
次に美寿々橋(みすすはし)と山下橋(やましたばし)を通る。
どちらの橋も歴史や名前の由来はわからなかった。

美寿々橋(みすすはし)
美寿々橋(みすすはし)
美寿々橋(みすすはし)
美寿々橋(みすすはし)

山下橋には「1993年12月」というプレートがついていた。
暗渠に架かる橋とはいえ、本当に橋なのだ。

山下橋(やましたばし)
山下橋(やましたばし)
山下橋(やましたばし)

山下橋には以前の古い橋の一部が残されており、
水車を模した橋のデザインについて説明があった。

昔の山下橋の名残
玉川上水と水車と山下橋について

 玉川上水は、江戸時代から私たちに限りない恵みとうるおいを与えてくれました。当時は、上水の余水を利用して水車が動き、人々の生活と強く結びついていました。ここ山下橋に人と水のふれあいが水車によって再現されています。
     渋谷区

山下橋の碑
山下橋(やましたばし)
山下橋(やましたばし)
山下橋(やましたばし)

山下橋の次にあるのが西原2丁目の代々幡橋。

この橋は『上水記』に「延寿橋」と記されており、
明治3年(1870年)の記録で「延寿橋」、
明治39年(1906年)の記録で「代々幡橋」。

『上水記』(1791年/寛政3年)は、
江戸上水の幕府公式記録。

玉川上水開削から137年後の寛政3年(1791年)に、
徳川幕府普請奉行(ふしんぶぎょう)上水方、
石野広通(いしの ひろみち)によって作られた。

主に神田上水と玉川上水の建設が記録されており、
天明8年(1788年)から3年がかりで3部作成されている。

代々幡橋(よよはたばし)

「代々幡」は「代々木」と「幡ヶ谷」の地名からで、
明治時代にこのあたりは代々幡村だったとのこと。
代々幡橋には花菖蒲のデザインがあしらわれている。

代々幡橋(よよはたばし)
代々幡橋(よよはたばし)

山下橋と同じく、古い橋の一部が脇に残されていた。
しかしこれは何と読むのだろうか?
古名の「延寿橋」ではないし、「代々幡橋」で良いのだろうか? 

古い代々幡橋の名残

このあたりの玉川上水旧水路緑道にも、
気をつけていると水道用地を示す支柱が度々埋め込まれている。

水道用地