東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。
玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。
羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。
→ 玉川上水を歩く Index
1日目の2019年2月18日、四谷大木戸を出発し、
玉川上水暗渠の上の緑道を笹塚まで歩いた。
2回目2019年3月20日は前回の終点、
笹塚「南ドンドン橋」を出発。
まず環七通りまで南西方向へ歩き、
環七横断地下道を通り抜け北西へ。
代田橋駅前から甲州街道に入って西へ向かい、
災害時給水拠点の大きなタンク(和泉水圧調整所)の前で
井の頭通りの西へ渡り、
玉川上水暗渠の上に作られた玉川上水公園を通り、
京王井の頭線を越えて再び甲州街道へ出た。
甲州街道の北は明治大学の和泉キャンパスで、
明大敷地の甲州沿いに塩硝蔵跡の看板が立っていた。
塩硝蔵(えんしょうぐら)地跡
杉並区教育委員会の説明版
現在、明治大学和泉校舎および本願寺派築地別院和田堀廟所となっているこの付近は、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡です。
当初は、多摩郡上石原宿(現調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(一七五〇年代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ一万八千八百九十六坪(約六万二〇〇〇平方メートル)あり、御蔵置(貯蔵庫)は、五棟・二町二反九畝五歩(約仁万三〇〇〇平方メートル)の規模であったといわれます。
当時、塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心三人が年番で交替居住し、警備や雑用には付近の一六ヶ村に対して、昼夜交替で三人づつの課役が徴せられました。
明治維新の際,塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上杉彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したといわれます。
その後当地は、兵部省を経て、陸軍省泉新田火薬庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任されておりましたが、大正の末期に廃止されました。
明治の末頃までの火薬庫周辺は、雑木林や欅が生い茂り、鬱蒼とした森となっていて、多くの狐や狸が棲息し、余談に人を化かした話等も伝えられています。
昭和五九年三月 杉並区教育委員会
塩硝蔵地跡を通り過ぎた後も、
明治大学と甲州街道に挟まれた玉川上水暗渠の上は
水道関係敷地で立ち入り禁止。柵が設けられていた。
更に甲州街道に沿って西へ歩いて行くと、
墓地(築地本願寺和田堀廟所)があり、
首都高速の永福料金所の高架下から玉川上水永泉寺緑地へ入る。
杉並区内の玉川上水暗渠の上は
東京都水道局から借地して3つの公園と1つの緑地が作られている。
下流から玉川上水公園・玉川上水永泉寺緑地
そして玉川上水第三公園・玉川上水第二公園で、
全長約2,000メートルの散歩道だ。
玉川上水永泉寺緑地には水が流れる場所があった。
季節によっては流れているのだろうか。
玉川上水永泉寺緑地は比較的禁止看板が少なかった。
犬と自転車が禁止だそうな。
下高井戸駅口が玉川上水永泉寺緑地の終わり。
下高井戸橋を横切って今度は玉川上水第三公園に入る。
欄干の文字によると、下高井戸橋の架橋は昭和2年1月。
近くの龍泉寺の説明版によると、
それ以前はこの近くに木造の龍泉寺橋が架かっていたとのことだ。