水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん),通称「水前寺公園」は,澄んだ阿蘇の伏流水を湛えた池を中心とする回遊式庭園で,昭和4年(1929年)に国の名勝史跡に指定されている。
水前寺成趣園の成り立ち
始まりは,肥後細川藩の初代藩主,細川忠利(ただとし)公によって建てられた「水前寺御茶屋」だった。
忠利公は,この地にこんこんと湧き出る清水を大変お気に召したのだった。忠利公が肥後の初代藩主となったのは寛永9年(1632年)のことだ。
その後,二代藩主の細川光尚(みつなお)公と三代藩主の綱利(つなとし)公による作庭が行われ,寛文11年(1671年)に現在とほぼ同規模の庭園となり,水前寺成趣園と名付けられた。
古今伝授の間
水前寺成趣園の正門前,庭園が最も美しく見える場所に建っているのが「古今伝授の間」だ。
「古今伝授の間」は,約400年前,戦国時代の建物。元々は八条宮智仁(としひと)親王の学問所として京都御所に建っていた。関ヶ原の戦いという天下分け目の戦乱の最中,ここで細川幽斎から八条宮智仁親王に「古今伝授」が伝えられたのだった。
この「古今伝授の間」は,実際に「古今伝授」が行われた場として唯一現存する建物であり,熊本県の重要文化財に指定されている。
「古今伝授」とは『古今和歌集』をより深く知り解釈するための奥義のこと。一人から一人にのみ伝えられ,古今集の教養は当時の天皇家および公家社会で大変重視されているものだった。
古今伝授の始まりと幽斎公
『新古今和歌集』の選者である藤原定家とその父である藤原俊成の時代に全盛期を迎えた歌の家,御子左家は,定家の孫の世代で二条・京極・冷泉の三家に別れた。
このうち二条家の歌学を受け継いだ東常縁(とうのつねより)が1471年に連歌師の宗祇(そうぎ)に二条家歌学の正統を伝え,これが「古今伝授」の始まりとされている。
古今伝授は,その後,宗祇から三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に伝えられた。
三条西家は,実隆→公条(きんえだ)→実枝(さねき)の三代にわたって古今伝授を継承したが,実枝の息子,公国(きんくに)が幼少であったため,実枝は弟子の細川幽斎(※)に「一時預かり」として古今伝授を伝えた。
幽斎は,決して他人に伝えないことや三条西家に伝え返すことを誓って古今伝授を受け,約束通り三条西公国に古今伝授を伝えようとしたが,公国は早逝。公国の息子である三条西実条(さねえだ)に古今伝授を伝え誓いを果たした。
※ 細川藤孝(1534〜1610)。肥後藩初代藩主・忠利の父。「幽斎」は雅号。
古今伝授と八条宮智仁親王
実は,三条西公国が亡くなった後,公国の息子の実枝に古今伝授が行われる以前,古今伝授の後継者問題がもちあがった。
ここで後継者として選ばれたのが,三条西家ではない八条宮智仁親王だった。智仁親王は後陽成天皇(ごようぜいてんのう,107代,在1586〜1611)の弟宮である。
ところが,智仁親王が幽斎から古今伝授を受けている最中に関ヶ原の戦いが始まった。
幽斎は古今伝授を終わらせることなく領地の田辺城に戻り,石田三成の軍勢に囲まれた。田辺城の籠城軍は500,対する石田軍は1万5千。
幽斎は死を覚悟し,全ての古今伝授の資料と修了証を智仁親王に送り届けた。
しかし,時の天皇であった後陽成天皇が,幽斎の死と古今伝授の断絶を恐れて勅命を出した。田辺城の囲みを解くように,と。古今伝授はそれほどまでに重要なものだったのだ。
この勅命により幽斎は命拾いをし,智仁親王への古今伝授を完了させることができた。
智仁親王から御所伝授へ
古今伝授を受けた智仁親王は,幽斎の古今伝授資料を書き写し,名実ともに古今伝授の継承者となった。
智仁親王は,後水尾天皇(ごみずのおてんのう,108代,在1611〜1629)に古今伝授を伝え,その後は代々の天皇に古今伝授が伝えられるようになっていったのだった。
古今伝授の間の熊本移築
京都御苑の八条宮家(後の桂宮家)に建てられた古今伝授の間は桂宮家によって大切にされ,京都御苑から長岡京に移築され,明治の時代を迎えた。
そして明治4年(1871年)。
明治維新の上知令によって桂宮家上地の際,古今伝授の間は幽斎公の細川家に下賜されることとなり,移築のため解体された。その直後の廃藩でいったん人手に渡るなど紆余屈折を経たものの,明治44年に細川家に返却され,大正元年(1912年)に水前寺成趣園への移築が完了した。
修復工事などで閉鎖していたこともあった古今伝授の間だが,平成22年(2010年)10月から一般公開されている。
「古今伝授の間」にて
火橙窓(かとうまど)は中国から伝わった様式で作られた窓。
この窓の前には書院棚があり,八条宮智仁親王はここに座して学問に励んだという。
加勢以多
古今伝授の間で,茶菓子と共にお茶をいただくことができる。
ここで出される「加勢以多」と「十六夜」は両方とも細川家御用達のお菓子メーカー香梅の開発で,古今伝授の間の管理も香梅が行っている。
「十六夜」は少し陰った十六夜の月をイメージした和菓子。
卵白の白い生地で,北海道産の手亡豆の餡に卵の黄味を加えた黄味餡を包んだもの。
「加勢以多」は,細川藩時代からの伝統的な菓子。
もち粉でできたおぼろ種でマルメロ(現在のものはカリン)の羊羹を挟んで,菓子の表には細川家の家紋「九曜の紋」が焼き付けられている。
加勢以多の名前は,ポルトガル語のカイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロ砂糖漬の箱)が訛ってカセイタになったものと推察されているそうだ。
当時ヨーロッパから伝来したマルメロ果実を用いたお菓子を,細川忠興(雅号・三斎)公が非常に気に入って茶事に重用し,やがて幕府や京都の公卿へ献上されるようになり,熊本を代表する献上品となった。
古今伝授の間では加勢以多と十六夜を購入することができる。