JR秋田駅からほど近い千秋公園の中に一風変わった稲荷神社がある。
まず,鳥居の横に並ぶ狛狐に目を奪われる。如何にも由緒ありそうだ。
一番外側に狛犬が並び,その奥の朱色の鳥居一つ一つには左右対になった狛狐が並んでいる。
それぞれに特徴がある愛嬌たっぷりな造形だ。
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
台座の説明まで撮って来なかったことが悔やまれるが,Wikipediaに下の写真の狐たち(拝殿に最も近い位置に鎮座している)について記述があった。「狐像の中でも最古の「萬延二年二月」(1861年3月)と台座に刻まれており、保戸野金砂町時代のものと判る。」そうだ。
与次郎稲荷神社は1892年(明治25年)6月26日に,保戸野金沙町から現在地の久保田城本丸へ移転してきたが,それ以前にも何度か移転している。
慶長年間(1596年10月27日〜1615年7月13日) 久保田城三ノ丸八幡山に建立
明和4年(1767年) 北ノ丸へ
嘉永2年(1849年) 保戸野金砂町の東清寺境内へ
明治25年(1892年) 久保田城本丸(現在地)へ
400年もの間,秋田の歴史と共に引っ越ししながら過ごしてきた神社なのだ。
下の狐たちは160年も以前に作られ,神社を見守ってきたことになる。
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
拝殿に近い少し外れた場所には仲良く並んだ2匹の白狐像。
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
拝殿前から外を眺めると,江戸時代の古い狐2匹が見えている。
与次郎稲荷神社(2023-09-24)
この神社が他の稲荷神社と一線を画すのは,狐が神使ではなくご神体であるということだ。
慶長9年8月(1604年9月)のこと。
まだ住む人も少なく荒れ地だったここ窪田の神明山に久保田城を築城した佐竹義宣公の前に,齢300年という大狐が現れた。
狐は言った。
「300年も神明山の地に住んでいたが,築城のために住処を失った。殿の力で新しい土地を与えてもらえないだろうか。願いを叶えていただけるなら,城の守りとなりお役に立とう。」
義宣公は大狐に城の茶園の近くの土地を与え「茶園守の与次郎」と呼ぶことにした。
与次郎狐は約束を違えず義宣公のために働いた。
飛脚として秋田ー江戸をたった6日で往復したが,このため仕事を失った飛脚達の恨みを買い,羽州街道の六田村(山形県東根市)で殺されてしまったのだった。
与次郎狐の死を悼んだ義宣公によって建てられた祠がこの神社の始まりなのだ。
与次郎を殺した六田村(山形県東根市)の者たちは与次郎の呪いで10日も経たないうちに死に,近隣の狐たちが集まって祟ったため村人にも乱心者が続出。その騒ぎは幕府の耳にまで届くこととなった。
幕府から派遣された代官の杉本伊兵衛は,与次郎をこの地で祀って祟りを収めた。このため,六田村(山形県東根市)にも「与次郎稲荷神社」があるとのことだ。
参勤交代の秋田藩の一行は,山形の与次郎稲荷神社に度々参拝したという伝説も残っているそうで,どういった歴史的事実が裏に隠れているのだろうかと興味をそそられる。
追記:
「与次郎」という名は,江戸時代に非人の別称としても使用されたようだと,SNSで相互フォローをしている古典文学に詳しい方から教えて頂いた。だとすると,与次郎のオリジナルは人だった可能性もあるかもしれないと。
「与次郎」という名前そのものにヒントがあるのかもしれないとは思い付いていなかった。名前を手掛かりに更に調べてみると何か見えて来るのかもしれない。
参考:
・与次郎稲荷神社 – Wikipedia
・広報あきたオンライン 秋田不思議発見伝1
・与次郎稲荷神社 – ひがしねどっとこむ