清少納言パパを訪ねて —清原神社

 熊本市電の祇園橋電停を下車し,坪井川を渡って北岡神社の横を北西に向かって歩く。このあたりは元々北岡神社の敷地だったが,民間に売却されて道路となった場所だ。

 道路が大きく曲がるところで,北岡神社の反対側にある崖を下りる階段がある。

 清原神社は,階段を下りてすぐの小径の奥にある。

 清原神社は住宅地に埋もれた小さな神社だが,古く由緒ある神社だ。
 肥後守として熊本へ赴任し,熊本で亡くなった清原元輔(きよはらのもとすけ)公の御霊が御祭神として祀られている。

 清原元輔は,三十六歌仙の一人であり,清少納言の父親である。
 清少納言の「清」は清原の清。清少納言の本名は清原諾子(きよはらのなぎこ)だったのではと言われている。

 三十六歌仙とは藤原公任による和歌アンソロジー『三十六人撰』に選ばれた,当代を代表する歌人のことだ。
 また,清原元輔は「梨壺の五人」の一人として知られいる。「梨壺の五人」とは,村上天皇の命で設置された和歌所に選ばれた5人のことで,万葉集の研究や『古今和歌集』に続く勅撰和歌集『後撰和歌集』の編纂を行った。日本語の変化のスピードは速く,この時代,既に万葉集に使われた言葉は解読困難になっていたのだ。

 清原元輔は,正にその時代の誰もが認める大歌人だったのである。
 1000年経った今では娘の清少納言の方が有名になってしまったが,その清少納言は,父元輔の名を汚さぬよう人前で歌を詠むことを悉く避けたという逸話が残っている。

清原元輔は、肥後の国司として寛和二年(986)から正暦元年(990)までの間肥後を治めていました。清少納言の父でもあり、三十六歌仙に数えられたほどの歌人で、また当時の肥後の女流歌人桧垣(ひがき)とも交流があったと伝えられており、鼓ヶ滝や藤崎宮の歌等が歌集に残っています。
正暦元年に亡くなったときは八十三才でした。

清原神社の案内柱より

 肥後守としての清原元輔の善政は民衆の人望を集め,彼の徳を慕った人々によって神社が建立されたといわれているそうだ。

 拝殿の横には苔むした祠が二つ並び,メインの拝殿の中には清原元輔を模したものであろうか,像が三体安置されている。
 北岡神社の管理下にあるためか,手入れが行き届いていて美しい。

 清原神社は北岡神社の飛地境内に置かれた神社で,道路で北岡神社と分断される以前,このあたりには北岡神社の茶畑が広がっていたらしい。

 「再建碑」の裏側には「対象十三年七月」と書いてあるようだ。


 せっかくなので,北岡神社の方も訪れてみる。
 清原神社へ下りてゆく階段の向かいあたりに駐車場と入り口があり,雰囲気的にこちらが裏参道になるようだ。北岡神社は更に大変古い由緒ある神社で,清原元輔より以前に肥後守として赴任した藤原保昌によって建立されたらしい。

 境内には神殿と拝殿の他に,神楽殿や多くの摂社・末社が並んでいる。
 神楽殿は2016年の熊本地震で被災し,新たに復興再建されたところだった。

 表参道の楼門へ続く御神木は樹齢1000年を数える大木。まさに清原元輔が熊本にいた時代からこの神社を見守ってきた木だと思うと感慨深く思われた。


 熊本に清少納言の父親を祀った神社があるという話は,地元の人の間でも意外と知られていない。
 三十六歌仙であり梨壺の五人であり清少納言の父親。そんな肩書を持つ人物が京から遠く離れた熊本の地で暮らし,その痕跡が今も残っているのだ。学校の古典の時間などでもっととりあげ,地元で関心を持つ人が増えてくれると良いのにと思う。

清原神社と北岡神社の地図
清原神社と北岡神社の地図

北岡神社~熊本の古神社~

全般ランキング

高瀬舟と高瀬舟縁起

『高瀬舟』概要

  • 著者 森鴎外(1862-1922)
  • 発表 1916年(大正5年)1月『中央公論』

『高瀬舟縁起』概要

  • 著者 森鴎外(1862-1922)
  • 発表 1916年(大正5年)1月『心の花 第二十巻第一号』

あらすじ

 舞台は江戸時代。
 松平定信が政権を取っていた寛政(1789-1801年)の頃で,知恩院の桜が散る頃の春の夕べだった。

 京都の罪人が流刑を申し渡されると,まず高瀬舟で大阪へ護送されることになっていた。
 護送を行う役人であった庄兵衛は多くの流刑人を見送ってきたが,この日護送することになった喜助に心を引かれる。庄兵衛が今まで護送してきた罪人たちが総じて悲しがっていたのと異なり,付添の親戚もなく一人で舟に乗った彼は晴れ晴れとした顔をしていた。
 喜助は弟を殺した罪人だったが,殺人を犯した悪人にも見えない。
 庄兵衛は喜助に流刑になった理由を訊ね,喜助が果たして本当に罪人なのか,幸福とは何であろうかと考え込むのだった。

 喜助の身の上話はこうだった。

 幼い頃に両親を亡くした喜助は弟と二人暮らしをしていたが,弟は病で倒れ,喜助は懸命に働いて弟を養ってギリギリの生活をしていた。だが,ある日帰宅すると,弟が喉を剃刀で刺して血を流し倒れていた。弟は兄に楽をさせてやりたいと思い,また自分に未来がないことも知って自害しようとしたが,失敗し,喜助に「剃刀を抜いてくれ,そうすれば自分は死ねる」と懇願した。
 喜助は迷っていたが,苦しそうな弟の必死の頼みを受け入れて剃刀を抜いてやった。
 結果,弟は亡くなり,喜助は弟殺しの殺人者という判決を受けたのだ。

 だが喜助は,命を助けられて島に行かせてもらえる。その島だって鬼が住む場所でもない。今までいていい場所が無かったので,居場所を与えられてありがたいと言うのだった。

 青空文庫になっているため,Kindleで無料で読める。


足るを知る

 庄兵衛は「不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていること」と考える。
 流刑の地へ向かおうとしながら喜助は幸福そうなのに,自分はどうであろうかと。

 日々の生活の出納は合っているが手一杯で満足というほどではない。仕事を首になったらどうしよう,病になったらどうしよう等と常に不安がつきまとっている。


庄兵衛はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だ

『高瀬舟』森鴎外

 物語は,朧月夜の黒い水の面を,沈黙した二人を乗せて舟がすべっていく描写で終わっている。喜助のやったことをどう考えるか,庄兵衛の想いをどう受け止めるかは読者に委ねられている。

 「足るを知る」ことが必ずしも良いこととは限らない。
 誰もが喜助のように自分の境遇に満足し幸福を感じていたら,おそらく世の中は停滞し発展は望めないであろう。もっと良くなろう,これでは足りない,そう思ってあがく人たちがいるから科学は進歩し社会は便利になってゆく。
 だが進歩し便利になることも,必ずしも良いとは限らない。それには際限が無い不安と努力がつきまとい,際限無いが故に時に人は疲れてしまうのだ。


安楽死

 森鴎外は,江戸時代の随筆集『翁草』の「流人の話」を元に,「罪人の財産に対する態度」「安楽死問題」の2点に興味を抱いてこの物語を書いたとのことだ。
 鴎外がこれを書いて100年以上が経過したが,日本では未だ安楽死や尊厳死についての法整備はなされておらず,人は自分の死を選ぶ権利を持たないし,他人の心からの死への願いを助ける権利も持っていない。

 江戸時代,おそらくそれ以前からあったのではと思われる安楽死の是非は令和の時代になっても冷静な議論すら難しい印象だが,多様性だのダイバーシティーだの言うのであれば,安楽死についても,もっと逃げない議論がなされても良いのではないかと思う。


年を取ると過去が近くなる

 『高瀬舟』は,たぶん小学校6年生の国語の教科書で読んだと思う。
 短い物語であるし『舞姫』のような雅文体でもない。子どもでもすぐに読み終わる物語ではあったが,小学生の私には,未だこの物語の機微を感じ取る感性が育っていなかった。

 小学生の私にとって,『高瀬舟』の舞台である江戸時代は大昔。自分とは無関係な世界の辛気くさい物語だとしか思えなかった。しかも夜の暗い川面を下っていく弟殺しの罪人の話だと思うと,おどろおどろしい気がして,積極的に物語の中へ入っていく気にはなれなかった。

 小学生の頃と言えば,祖父母どころか両親が子どもだった時代でさえ大昔に思えたのだ。両親なんてたった四半世紀しか年齢が違わないのに。
 年を取るとは不思議なもので,過去を把握する奥行きが広がる。
 それから何十年もの年月が過ぎ去り,その分だけ明治も江戸も更に遠く離れてしまったはずなのに,今では子どもの頃ほど大昔とは思わないし,親しみが持てる近い時代であるとすら感じられる。そこで生きていた人々も現代を生きる人々も,何も変わらぬ人間であり別世界などではないことを人生経験によって知ったからなのかもしれない。

 過去の時代に書かれた過去の物語も,今なら自分の世界の物語として血肉にすることができる。それを嬉しく思う。


 わかりやすい文体だし短い物語なのに現代語訳が必要なのか不思議だが,下記のような本は解説付きなので理解は深まるかもしれない。


高瀬舟縁起

 『高瀬舟縁起』は森鴎外が『高瀬舟』を書いた理由を記した随筆。

 『高瀬舟』は,江戸時代の随筆集『翁草』から題材を得て書かれている。
 鴎外はこの話に二つの問題を見出した。

 一つは財産について。もう一つは安楽死について。
 罪人として高瀬舟に乗った男が二百文を喜んだことをおもしろいと思い,また死にかかっていて死なれずに苦しんでいる人を死なせてやるということの是非が問われているところをおもしろいと考え,『高瀬舟』を書いたとのことだ。

 京都の高瀬川の歴史や曳舟についても書かれている。
 元来「たかせ」は舟の名なので,その舟の通う川を高瀬川と呼び,同名の川は諸国にあるとのことだ。

 短くすぐに読み終わる随筆なので,『高瀬舟』と合わせて読めば理解が深まり良いと思う。

高瀬舟縁起
読書日記ランキング