都内の神社などで,時々「東京農業歴史めぐり」の看板を見かける。
知らずにたまたま出くわすことが多く,そのたびに興味深く読んできた。今となっては想像もできない農業が盛んだった頃の東京の風景が思い浮かぶ。
調べてみるとウェブサイトがあって,どこへ行けば農業歴史巡りができるかわかるようになっていた。
未だ訪れたことがない「東京農業歴史めぐり」の碑をめぐってみようと思い立ち,まず目指したのが文京区目白台にある稲荷神社だった。
平田牧場はこの神社から比較的近い雑司が谷村にあったそうで,文京区には明治時代に20件近くの牧場が集中していたため,この神社に碑が設置されているらしい。
小さな神社で台地の端にある。昔は見晴らしが良かったであろう。
神社の正式名称は「稲荷神社」のようだが,横に「腰掛稲荷」と書かれている。


参拝し,境内を歩いてみる。
小さな神社だが綺麗で手入れが行き届いている。


神社と隣り合った社務所(住宅にしか見えない)の間には植木が置かれ,神職のご家族の生活感が感じられる。土地に根付いた神社らしくて良いなと思った。



農業巡りの碑を探して拝殿の後ろに回ってみると,珍しいものがあった。
「菊花石」というらしく,石の割れ目が菊の模様になっている。大きな石に菊が3輪も浮き出ている立派な石だ。
神社にはよく「さざれ石」が置かれているが,菊花石は初めて見た。



腰掛け稲荷の由緒。
徳川三代将軍家光公が鷹狩りで当地を訪れた際、ご休息された切り株の傍らにあった祠に大願成就を祈願され、見事に徳川三百年の礎を築け上げたことから正一位腰掛稲荷大明神と奉称し、江戸時代より氏神としてあつく近隣の崇敬を受けたのが当神社の始まり。腰掛という言葉に、大志を胸に秘めて一時、仮に身をおくという意味を持たせるようになったのがちょうど江戸時代のこの頃からと言われ、参勤交代などで志をもって江戸に来た侍や商人、奉公人たちの一時腰掛けの心の支えとして、また近年は、縁結びや合格、就職、転職、大願成就祈願など、これから新しい道へ踏み出したい人に開運のご利益のあるお稲荷さまとして崇敬され、今日に至っている。
祭神 豊受姫命 例大祭九月十日前後の日曜日 稲荷神社

江戸・東京農業めぐりの平田牧場の説明看板は,境内の駐車場脇,御神木の後ろに秘かに立っていた。

江戸・東京の農業 平田牧場
明治の元勲・山県有朋が出資して、明治5〜6年、平田貞次郎に英華舎・平田牛乳搾乳所(現在の千代田区三番町)を解説させ、同10年代には雑司が谷村に牧場を開設しました。
清戸坂の道ぞい北側に平田牧場の立派な牧舎があり、隣には牛乳の小売店として、旗竿には「官許うしのちち」と、かなとローマ字書きの旗がかかっていました。
ここ文京区は、昭和22年に小石川区と本郷区が合併、明治以来文教地区であったことにその名は由来していますが、農業、特に畜産も当区の歴史として一ページを飾っています。
ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸には欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治10年の西南の役が終わった頃より、当区にも牛乳搾乳業者が増加しました。
明治中期の資料によると、本郷弓町「牧牛社」、本郷真砂町「真砂社」、本郷森川町「開墾社」、湯崎新花町「厚生舎」、千駄木林町「楽牛園」、千駄木町「友國社」、駒込上富士前町「長養軒」、駒込曙町「曙舎」、小日向茗荷谷町「駒山牧社」、小石川原町「嶺岡牧社」、小石川久堅町「保生舎」など20軒近い牧場が集中していました。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業
平田牧場 | 東京農業歴史めぐり | 東京の農業 | JA東京中央会

一通り写真を撮って帰ろうとすると,鳥居の前で老婦人に声をかけられた。彼女は私が農業の碑を見ている時に社務所から出てこられたのを視界の端で確認していたのだったが,とっくにお出かけされただろうと思っていたので驚いた。
「平田牧場の碑を見に来たのです。農業の歴史めぐりをしています」と答えると,彼女は「珍しい方がいらっしゃったと思って」と言い,ナチュラルに世間話が始まった。
彼女はおそらく神社の神職の母親と思われ,買い物にお出かけするところだったが私を見かけて待っていたらしい。平田牧場は本当はここではなく,日本女子大のあたりにあったのよ,ここに看板を置かせてほしいと言われたので置いているのと言う。なるほどそうだったのか。
そして菊花石の話が始まった。
あの石は,下落合で石を集めていた人のお宅にあったの。そのお宅には沢山の立派な石があったのよ,でも区画整理で移転することになって,引っ越し先のマンションには置けないしここに置くことになったのよ,と。前の持ち主さんのところには上質な菊花石が他にもたくさんあったという。
そうだったのかー。あの石は下落合から来たんだ。

そして鳥居のはす向かいにある「見ざる聞かざる言わざる」の庚申塔についても話してくれた。
もともと近所の別の場所にあったのだが,道路の拡張工事で撤去されることになり,この神社にやってきたのだそうだ。この子たち,お花をお供えされ大切にされて幸せだね。
こうして日本の神様は懐深く様々な神仏を吸収してゆくのだろうか。

この冬一番の寒波で5℃くらいしかなかった寒空の下,彼女と30分近く立ち話をし,この他にも近所に昔住んでいた著名人のことなども聞かせていただいた。
ご近所には学生時代の村上春樹さんが住んでいたし,田中角栄さんのご自宅があり,やはり内閣総理大臣だった細川護煕さんのご自宅もあったとのこと。田中角栄宅というのは火事で焼けてしまった「目白御殿」のことだろう。また細川邸は旧細川庭園と永青文庫があるあたりだろう。
そして,詳しく話して下さったのは杉山寧画伯のことだった。
画伯は氏子としてこの神社と深く関わっておられたのか,たくさんいただいた奉納のお札を持ってご自宅を訪れると,お女中さんが対応してくださったという。杉山寧画伯は文化勲章も受章された画壇の頂点を極めたお方なので,身のまわりのお世話を担う家政婦さんが常駐していたのだろう。氏子として神社を大切になさるお人柄も偲ばれる。
杉山画伯が亡くなり,それからほどなく三島由紀夫に嫁いでいた画伯の娘さんも若くして亡くなり,不幸が続いた後にご自宅は解体され,今はそこにはマンションが建っているということだった。
(調べてみると,杉山寧画伯は平成5年(1993年)に84歳で亡くなり,その2年後の平成7年(1995年)に長女で三島由紀夫の妻であった瑤子さんが58歳の若さで急逝されている。なお,三島由紀夫の三島事件は1970年だ。)
この話をしてくださった老婦人は私の母とほぼ同年齢で90歳近い。長い間目白台の神社を守り,ご近所の変遷を眺めて来られたのだ。たまたまお会いして,こういった貴重なお話をうかがうことができて良かったと思う。
彼女は赤紫色の毛糸の帽子を被り,同じ毛糸で編んだお洒落なデザインのマフラーを巻いて,ピンクの花柄の大きなリュックを背負ってお洒落だった。杖を片手に元気に話して下さった。話している最中に通りかかる近所の方々ともにこやかに挨拶を交わされていた。寒空の中での長話,その後お風邪など召されなかっただろうか。
「お元気で」と言ってお別れし,私はその後,彼女に教えていただいた清土鬼子母神を訪れた。雑司が谷の鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像が掘り出された場所だということだ。

・腰掛稲荷神社 – Wikipedia
・稲荷神社 – 東京都神社庁
