小学校6年生の時に一度読んだきりだった本書を,50年ぶりに再読した。
内容はもともとよく知っている『銀河鉄道の夜』以外はほぼ忘れていたし,銀河鉄道の夜も実はかなり大雑把な把握であったことがわかった。
童話の様を呈していながら非常に高度な文化的科学的内容が織り込まれている。『風の又三郎』など「風の三郎」という存在を知らなければ全く意味がわからないではないか? 小学生では炎色反応を習っていないので『銀河鉄道の夜』の蠍の炎に出て来る「リチウム」の意味も理解できなかったであろう。
どの物語も一度読んだだけでは何もつかみ取ることができず,一度読んで色々ネット検索などして二度目を読んでようやく少しばかり理解を深められた。
以下,再読と再々読の後の備忘録を記しておく。
本の概要

- 出版社 : 講談社 (1971/7/1)
- 発売日 : 1971/7/1
- 文庫 : 392ページ
- ISBN-10 : 4061310291
- ISBN-13 : 978-4061310292
収録作品は下記6作品。
- 貝の火
- ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記
- ポラーノの広場
- 風の又三郎
- シグナルとシグナレス
- 銀河鉄道の夜
編集及び校異,解説は,文学者であり児童文学作家であり宮沢賢治研究家の天沢退二郎氏による。
貝の火
『貝の火』は,貝の火という宝物が美しく見てみたかったことと,楽しい話ではなかったことを覚えていた。
そして,今再び読んでみると疑問だらけだった。
主人公たる子兎のホモイはわんぱく坊やだが,溺れかけたヒバリの子を助ける心も持った良い子である。しかし何しろ子どもなのだ。貝の火のような宝物を得ていきなり周囲の動物たちから畏敬の念を示されたら思い上がってしまうことは責められない。
親がきちんと教育できれば違うかもしれないが,親だって貝の火などという貴重な宝物の知識はないのだ。ヒバリの王は,いったいどんな意図で子どもにそのような危険極まりないお礼をするのだろう。かえって災いではないか?
たった6日の過ちで自らの言動を省みる暇も与えられず目を潰されてしまうなど理不尽すぎるではないかとホモイ一家が不憫であった。
それにしてもホモイの父よ,狐が盗んだ角パンなのに食べていいの? その辺はウサギのことだと思って大目に見るべき?
ヒバリの子の描写「顔中しわだらけで、くちばしが大きくて、おまけにどこかとかげに似ているのです」は素晴らしい。きっとその通り。宮沢賢治はヒバリの子をつぶさに観察した経験があったに違いないと思った。
因みに「貝の火」とは蛋白石(オパール)のことらしい。
ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記
『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』は「ペンネンネンネンネン・ネネム」という奇怪な名前のみ覚えていた。
『グスコーブドリの伝記』を読んだ直後にこれを読んだため,共通するストーリーや設定がよくわかった。
共通設定は多くても,ネネムはブドリと異なり「ばけもの」だ。「ばけもの」の世界に住んでいて「ばけもの」世界の常識で生きている。だから更に非常識な物語になっている。
太陽のことは「キレ」さまと書かれ,東の空は「琥珀色のビールで一杯になる」とか「風の中のふかやさめがつきあたっている」という表現に,ばけもの世界は海の中にあるのかとも考えてみたがそうでもなさそう。
また,ばけもの世界の世界長は「身のたけ百九十尺もある中生代の瑪瑙木」とのことだ。190尺=5757.57cm=57.5757m。すごく大きい!
瑪瑙(めのう)木=珪化木は,古代の木が長い時間をかけてシリカ(SiO₂)に置き換えられ化石化したものである。珪化木は色とりどりの層を持っていて,縞模様や半透明の部分を形成し,まるで瑪瑙のように見えることから瑪瑙木と呼ばれたりするのだ。こんな地質学的知識がサラリと込められているところは宮沢賢治なのだろうが,残念ながら,少なくとも小学生の私は「中生代の瑪瑙木」が何なのか全く理解できなかった。「190尺」もわからなかったので,ばけもの世界が如何に不思議な世界であるか感じることはできなかったであろう。
ばけもの世界の話だけあって荒唐無稽でハチャメチャで,最後もオチがあるのかないのか,悲しいのか喜劇なのかわからない感じのネネムの物語だが,私はしかつめらしく終わるブドリより好きだと思った。
本書の解説によると,この作品は『貝の火』と同じく1920年に書かれた最も初期の童話の一つで,筑摩版全集後記で『グスコーブドリの伝記』の原形と記されているとのこと。
下記のサイト様(宮澤賢治の詩の世界)では,『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』は,1922年(大正11年)頃に書かれたものと推定されており,草稿成立後に手を入れられ,一部は『グスコーブドリの伝記』へと生まれ変わっていると書かれている。
参考:ネネムからブドリへ – 宮澤賢治の詩の世界
宮澤賢治の詩の世界
ポラーノの広場
『ポラーノの広場』は,夜に音楽が鳴る広場の話,程度の内容しか覚えていなかった。
若い役人であるレオーノ・キューストが,かつてイーハトーヴォのモリーオ市の博物局に勤めていた頃の出来事を振り返る物語。
迷子になった山羊を追いかけていたキューストは,地主テーモの農場で働く17歳の少年ファゼーロと知り合い仲良くなる。ファゼーロにはロザーロという美しい姉がいて,やはり地主のところで働いている。
キューストとファゼーロは,ファゼーロの友人で羊飼のミーロと3人つれだって,夜だけ現れるポラーノの広場を,聞こえてくる音楽をたよりに探そうとする。そしてある日,とうとう広場に辿り着くが,そこは思っていたような場所ではなかった。山猫博士のデストゥパーゴがみなに酒をふるまっていた。
山猫博士のデストゥパーゴは裏が分からない人物だ。色々あった末,モーリオ市の若者達は新しい仕事を開発し,キューストは他所へ赴任する。おそらく物語の中のモーリオ市は盛岡市,センダード市は仙台市,トーキオの市は東京のことだろう。東京には少しばかり悪意を感じられ悲しかった。
子どもの頃に読んだ時はほぼ感銘を受けずに読み終わった『ポラーノの広場』だが,今読むと何度か読み返したくなる叙情に溢れていたように思う。
風の又三郎
『風の又三郎』で覚えていたことは,又三郎が物語の最後にいなくなるということだけ。
そもそも「風の又三郎」という風の神がいることや,それがどういった存在であるかという知識がない。二百十日にやってきた転校生という事実が暗示することなど思い至るはずがない。
その上,登場人物が多く,彼らの会話が東北弁であることが,わかりにくさに拍車をかけていた。
本書では物語の末尾に編者の天沢氏による方言解説の注釈があり,それを参照しながら読めば意味をとることができたが,おそらく小学生の時の読書では物語を楽しむことは諦めて,ただ字面を追っただけだったのであろう。今回の再読でも一度読んだだけでは大まかな内容を把握できただけで,二度読みしてようやく色々と読み取れたのだった。
登場人物が多く名前を覚えるのが大変なので子供達の関係はわかりにくかったが,彼らの関係を丁寧に見ていくと面白いのかもしれない。サイカチの木がある川原での出来事,発破で川魚をとる漁や,山椒の粉で発破の効果を得ることなど興味深かった。
三郎の父親がモリブデン採掘の仕事でこの地へやってきたという設定だったので調べてみると,岩手県の猫山でモリブデン鉱石が採れるようだ。
参考:岩手 賢治ロード
6年生 1人 一郎
5年生 7人 三郎・嘉助・きよ
4年生 6人 佐太郎・喜蔵・甲助
2年生 8人 かよ
1年生 4人 小助
参考:風の三郎(かぜのさぶろう)とは? 意味や使い方 – コトバンク
シグナルとシグナレス
『シグナルとシグナレス』はあまりに風変わりな物語だったため,擬人化された鉄道の信号機が星空の下で愛を交わす物語である程度には覚えていた。
軽便鉄道のシグナルの柱であるシグナレスと,本線のシグナルの悲恋物語。
シグナレスは旧式で,木でできていて眼鏡は一つ,夜はランプ。シグナルは新式で金でできていて赤青眼鏡を二組持っていて夜は電灯。だが,シグナルはシグナレスの旧式なところを貴いと言う。愛の証の指輪はこと座の環状星雲M57。シグナルとシグナレスはM57を肉眼で確認できるらしい。人間とは異なる視力と眼鏡を持っているから?
しかし周囲の電信柱たちは,シグナルとシグナレスの結婚に反対なのだった。軽便鉄道と立派な本線の鉄道では身分が違うのだ。
シグナルとシグナレスが祈りを捧げるジョージ・スチーブンソン(1781〜1848)。誰だろうと調べてみると,蒸気機関車を使った公共鉄道の実用化に貢献し「鉄道の父」と呼ばれるイングランドの技術者だった。
会話の中でシグナルつきの柱が「ぶっきりこ」と呼ばれており意味がわからなかったが,「ぶっきらぼうな者」とか「二人の仲をぶっ切る者」とか「木をぶっ切って作った柱」などの意味を含めた賢治の造語であるようだ。宮沢賢治の作品には造語が多く,一方専門用語や方言の可能性もあるため戸惑うことが多い。
同じく「チョーク」という言葉も,如何にも唐突に出てきて意味不明に思えた。
調べてみると,菊芋(姿形がふっくらでこぼこしており,しかもカロリーが十分取れず誰からも相手にされないもの)のことであろうと説明するサイトを見つけた。
銀河鉄道の夜
『銀河鉄道の夜』はアニメにもなったし流石に物語の概要は覚えていたが,細かいところ,特に鉄道に乗る前の天気輪のことなどは忘れていた。
勤労少年ジョバンニ
ジョバンニは学校が終わると活版所で働くが,職場の人には「虫めがね君」と呼ばれ冷たく笑われている。朝は新聞配達の仕事もしているようだ。カンパネルラの家にも配達しているという話を母親にしている。
姉がいるようだが,母との話にでてきてトマトの料理を作り置きしてくれたことしかわからない。姉も働いているのかもしれないと思ったが,結婚して別に暮らしていると書かれている解説を見かけた。
天気輪
仕事が忙しく始終眠く,遊ぶ暇もない。学校の友達の中に入っていけないジョバンニはカンパネルラがみんなと一緒に行ってしまうのを悲しく眺める。そんな孤独な彼が見た「天気輪」とは何だろう。調べてみたが定説はないようだ。
「天気輪」の章で原稿が5枚分紛失しているとのことで,ここで本当はブルカニロ博士が出てきてジョパンニと話をする。このあと意味がわからない箇所が幾つもあったが,その紛失した原稿5枚の文章があれば分かりやすかったのだろう。
三角標
天気輪の柱が三角標になるのを皮切りに,物語ではその後何度も何度も三角標というものが出て来る。三角標は銀河鉄道を導く重要アイテムのようだ。
これは三角測量のための櫓(高覘標/こうてんぴょう,三角覘標/さんかくてんぴょう)のことだと考えられているようだ。複数のサイトでそのように説明されている。
プリオシン海岸
「北十字とプリオシン海岸」のプリオシン海岸とは,如何にも意味ありげに見えた。
調べてみると,賢治がよく巡検に出かけていたイギリス海岸(北上川の泥岩層の川岸に賢治がつけた渾名)がモデルらしい。プリオシンの名は地質時代の新生代,新第三紀の終わり鮮新世(せんしんせい/Pliocene)から来ている。
学者らしい人が助手に指図をしながらボスという牛の先祖の骨の発掘をしており,ジョバンニたちが拾った胡桃は,120万年前の第三紀のものだという(120万年前は今の地質区分では第四紀更新世になる)。
牛の祖先ボスとは,オーロックス(Bos primigenius)のことであろう。宮沢賢治はイギリス海岸でボスとは別系統「ハナイズミモリウシ」の足跡を発見したそうだ。カンパネルラが拾った大きなくるみの実も,実際に賢治が胡桃の化石を採取した事実から来ているとのこと。
讃美歌306番
タイタニック号の沈没がモチーフと思われる青年と幼い姉弟の話で出て来る讃美歌306番は,調べてみると現在の讃美歌では320番(主よみもとに近づかん のぼるみちは十字架に)に相当するらしい。讃美歌の番号は同じ讃美歌でも本によって異なるが,賢治がどの讃美歌から306の番号を引いたのかは分かっていないようだ。
オーケストラベルとジロフォン
灯台看守が苹果を配るあたりで森の中から聞こえる音に「オーケストラベルやジロフォン」と書かれている。どちらもピンとこない楽器名だった。
オーケストラベルは金管を叩いて音を出すチューブラーベル,ジロフォンは木琴のこと。チューブラーベルと言われても更にピンと来なかったのだが,NHKの「のど自慢」で使われている鐘らしい。
南天の星座たち
銀河鉄道は,孔雀や海豚,インディアンや鶴などを見ながら走る。もちろんこれは「くじゃく座」「いるか座」「インディアン座」「つる座」などの星座のことだろう。
ジョバンニたちは「星とつるはしを描いた旗」を見かけるが,このあたりの意味はよくわからなかった。旗は工事中を示すものなのだろうか。架橋演習をしているのではと話が展開していたが,演習で架橋するとは?
双子のお星さまのお宮
姉弟の話に「双子のお星さまのお宮」が登場する。小さな水晶のお宮で天の川の岸にあるそうだ。しかし私はそのような星の物語は聞いたことがない。調べてみたが,どの星の話なのか特定されていないようだ。
さそり座の尾にあるλとυ(和名:兄弟星・女夫星・蟹の眼・猫の目)ではという考察があるらしいが,『双子の星』を読むと違うのではと否定もされている。確かにこの直後に蠍の火の話が出てきて,さそりの尾がかぎのように並んでいるのを見かけるわけだから,λとυではないだろう。
蠍の火
アンタレスのことは「ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく酔ったようになって」と書かれている。ルビーは赤の表現としてありがちだが,リチウムの炎色反応はレアだ。赤い炎色反応なら,私ならストロンチウムだと思うのだが?
燃えている赤い「蠍の火」の表現として,炎色反応の炎はピッタリだと思う。
ブルカニロ博士とプレシオスの鎖
さそりを過ぎるとサウザンクロスと石炭袋,そしてカンパネルラとの別れがやってくる。
消えたカンパネルラに代わるように突然現れるブルカニロ博士とは誰なのか? そして彼が語るプレシオスの鎖とは?
プレシオスはプレアデスから作られた賢治の造語であるというのが一般的解釈のようだ。プレアデスは和名では六連星(むつらぼし),統星(すばる),昴星(むらぼし)で,鎖のように連なっていて解きほぐす表現にはピッタリだ。
下記のぐんま天文台のサイトでは,鎖を解くとは混沌とした事実と虚構を切り分け真実の再構築をすることと読める,という解釈が書かれている。
『銀河鉄道の夜』は4回の改稿を経た未完成の作品で,この本の『銀河鉄道の夜』は主に第三次稿から校正されている。ブルカニロ博士が登場するのは第三次稿のみで,第三次稿ではジョバンニの旅はブルカニロ博士の実験であるという体で書かれており,旅の終わりにブルカニロ博士が登場するのだ。
旅の途中でたまに聞こえてくる「セロのような声」はブルカニロ博士とのこと。天気輪の部分で失われた原稿の中にブルカニロ博士が登場しているのであろう。
参考:『銀河鉄道の夜』とブルカニロ博士(自己)の消去 – 宮沢賢治の2つの謎
なお,この本はブルカニロ博士が登場する第三次稿で校正されているが,第四次稿にのみ登場するらしいマルソとカンパネルラの父親が登場する。
カンパネルラとカムパネルラ
本書では一貫して「カンパネルラ」と書かれているが,一般的に見かける表記は「カムパネルラ」だ。
調べてみると,原文でも「カンパネルラ」と書かれていたり「カムパネルラ」と書かれていたりするようで,概ね「カムパネルラ」と書かれている書籍が多いが「カンパネルラ」と書かれている書籍もあるとのこと。要するにどちらも正しいということだろう。
