本の概要
- ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)
- 著者 伊藤 計劃(いとう けいかく)
- 出版 早川書房
- 発売 2010/12/8
21世紀後半、“大災禍”と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した―それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはずの少女の影を見る―『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
「BOOK」データベース
物語の背景
本書は惜しまれつつ早逝した伊藤計劃氏の『虐殺器官』に続く物語。
『虐殺器官』の後の世界が描かれているとも考えられ,そういう意味では『虐殺器官』読了後に読むとより良いかもしれない。が,本書単独で完結しており,物語を楽しむ上で『虐殺器官』読了の有無は特に問題とならない。
2019年アメリカに端を発する「大災禍」を経て,核と未知のウイルスの蔓延で世界は崩壊寸前に至った。
その教訓から,国と政府による世界は終わり,21世紀の半ば,世界には「大災禍」の再来を防ぐための新しいシステムが誕生している。人々の体には医療デバイスが埋め込まれ,新たな統治機構「生府」の下で,人は限りなく健康で幸福な生活を送るようになっていた。
食事や見るべき映画読むべき本まで心地よく推奨されており,外れる行為があれば体の中のデバイスが教えてくれるのだ。
生府に統治された地域では,建物も木々も心地よいピンク色。人々は不快なものに出会う機会もない。デバイスを埋め込まれた人間は一人一人が大切な社会のリソースであり,自分の体は社会のもの,自分のものではないのだった。
そんな世界に居心地悪さを覚えていた女子高校生の霧慧(きりえ)トァンは,同じ気持ちを共有できる友人たち,御冷(みひえ)ミァハ・零下堂(れいかどう)キアンと出会う。
同志だった3人のたどった運命は,各々があまりにも過酷なものだった…。
私が私であるということ
― SFというより哲学の書?
誰も彼もが互いのことを気遣うこのご時世。まさか、それを積極的に勘弁願いたいと思っている人間が身近に存在する、なんてことは、善意の押しつけに染まりきったわたしたちの世代には想像しにくい。仕方のないことだ。我らの世代は、お互いが 慈しみ、支え合い、ハーモニーを奏でるのがオトナだと教えられて育ってきたから。
位置: 1,457
自分であるということは何だろう?
人は何故「自分であること」を求めるのだろう?
幸福とは何だろう?
選択の自由があるのは幸せなことだ。
しかし心地よいお勧めだけで事足りるならそれで幸せだろうか?
医療デバイスが埋め込まれた病気が克服された世界。
一見,この物語は自分の現在とかけ離れた絵空事であるかのように思える。
しかし,よく考えてみると,決してそうではない。
現代の日常にはレコメンドが満ちあふれている。
Netflixでお勧めだけ見ていれば時間はどれだけだって潰せるだろう。
Amazonで買い物をすれば次々とレコメンドが表示され,今まで知りもしなかった製品が突然欲しくなって買ってしまうかもしれない。
時に面倒で煩わしい決断というステップを排除し,これらレコメンドに従っているだけの生活になったとして,それは不幸だろうか?
ユートピアとディストピアは紙一重
所詮,我々が今現在持っている幸福だの不幸だのという価値観は,現在の社会で,この場所で生まれ育った者限定の価値観でしかない。
不幸にも幸福にも絶対的基準は存在しないし,同じ人間であっても生まれた時代や場所が変われば異なった状況を幸福と感じるだろう。
この物語が描くハーモニーの世界を,2021年の日本で暮らす私は『1984年』の世界と大して変わらないディストピアだと感じた。しかし,考えようによっては確かにユートピアなのかもしれない。
選択する,意志決定を行う,そういったことと無縁に生まれ育って,病気も痛みも知らず暮らすなんて,そんなの生きているとは言えない!と思うのは,意志を持って選択し痛みや苦痛を感じて生きるのが当然だったからに過ぎない。
そういったことを何も知らずに生まれ育ったのだったら,意志の存在も病気も同等な野蛮なことでしかないだろう。
アニメとコミック
本作は,「Project Itoh」により劇場版アニメが2015年12月に公開されている。
『虐殺器官』も2017年2月に公開となっており,Blu-rayにもなっている。またコミカライズもされているので,文字の本を読む時間はないが内容は気になるという方は,アニメやコミックから物語に入っても良いかもしれない。