本の概要
上巻
- 著者:清少納言(生没年未詳 966?〜1025?)
- 校訂・訳:島内裕子(放送大学教授・博士)
- 出版社:筑摩書房 (2017/4/6)
- 発売日:2017/4/6
- 文庫:464ページ
- ISBN-10:4480097864
- ISBN-13:978-4480097866
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下巻
- 出版社:筑摩書房 (2017/4/6)
- 発売日:2017/4/6
- 文庫:528ページ
- ISBN-10:4480097872
- ISBN-13:978-4480097873
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2024年度より放送大学で開始された「『枕草子』の世界」の副読本として購入し,講義の傍ら摘まみ読みし,その後通読した。
『枕草子』の世界 (放送大学教材 2623)
- 著者:島内裕子
- 出版社:放送大学教育振興会 (2024/3/20)
- 発売日:2024/3/20
- 単行本:296ページ
- ISBN-10:4595324502
- ISBN-13:978-4595324505
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一つではない『枕草子』
『枕草子』には歴史的に長いこと信頼すべき本文が存在せず,『源氏物語』などに比べると注釈研究も遅れていた。多くの諸本が存在し,本文は錯綜し,章段区分も統一されていない。
江戸時代に北村季吟が『枕草子春曙抄(しゅんしょしょう)』(1674年)を出版し,ようやく一般の読者が読めるようになったのだ。
江戸時代から明治,昭和の戦前までずっと『枕草子』を読むとは,即ち北村季吟の『春曙抄』を読むことだった。松尾芭蕉も与謝蕪村も樋口一葉も与謝野晶子も,『春曙抄』を読み,影響を受けた作品を残している。
ところが,戦後,昭和20年代に『枕草子』の流れに断絶が起こった。
『枕草子』の諸本は大きく2つに分類される。 内容が入り交じる「雑纂形態」と内容別に分類される「類纂形態」だ。
雑纂形態は,更に「三巻本(さんかんぼん)」と「能因本(のういんぼん)」の2つの系統に分かれ,季吟の『春曙抄』は「能因本」系統に近い。因みに,能因(橘永愷:たちばなのながやす, 988〜?)は清少納言の息子である橘則長(982〜1034)の妻の兄弟である。
けれども,昭和20年以降の日本で出版され読まれている『枕草子』は,ほぼ全てが「三巻本」系統の本文を採用する流れとなったのだ。これについては下巻の解説に書かれている。
昭和三年(一九二八)には、池田亀鑑が三巻本の優位を書誌学的に主張する論文を発表し、昭和十四年(一九三九)に、山岸徳平が三巻本を底本とする『校註枕草子』を刊行するや、春曙抄本から三巻本へという潮流が生まれ、特に昭和二十年代以降は、三巻本が主流になって、現代に至っている。
(島内裕子『枕草子 下』 p.519)
『春曙抄』の本文と「三巻本」系統の本文とでは,表現も章段配列もかなり異なっており,場合によっては章段全体の印象もコロリと変わってしまうほどだ。
まず,誰もがよく知っている冒頭の冬の部分が異なる。
- 春曙抄 冬は、雪の降りたるは、言ふべきに有らず。
- 三巻本 冬は早朝(つとめて)。雪の降りたるはいふべきにもあらず。
戦前までの日本人が読み親しんだ『春曙抄』を読むことにより,歴代の文学者達が築いてきた文学の流れに身を置いて,現代まで繋がる『枕草子』文化圏の広がりを目の当たりにできるのが島内裕子先生の講義であり,本書である。
本書では適宜「三巻本」の内容が紹介されており,『春曙抄』の本文とどのように異なっているか,理解を深めることができる。
全体的な読後感想
私は理科系出身で,高校以来ずっと国文学や古典は門外漢だと敬遠してきた。実際,難しくて読めなかったのだ。
おかげで千年も残り続けた名著である『枕草子』も高校の古文で出てきた冒頭しか知らない有様だった。どれくらいの長さの書物なのかも知らず,本書の上下巻を取り寄せて長さに驚いた。
放送大学の『『枕草子』の世界』は『枕草子』を全く知らない初心者が作品全体を概観するのにピッタリの講義で,これを受講した後に本書で本文を通し読みすると理解も早い。事前の大まかな知識があれば,少納言の活き活きとした筆致に入り込みやすく,当時の生活もより身近に感じられる。
流石に古文は難解ではあるが,島内裕子先生の訳文と対比しながら読み進めると何とか理解できる。2回か3回繰り返して読むと,更に熟れて頭に入ってくる感じだった。
古文に慣れぬ身であっても,清少納言の文章は機知に富み観察眼が鋭く,表現も自由で溌剌としており,彼女が過ごした千年前の世界が彩りを持って活き活きと見えてくる。
『紫式部日記』で清少納言が名指しで批判されていたりすることが原因か,世間の評価は概ね紫式部が高めで,清少納言は知識自慢の鼻持ちならないパリピ女のように言われたりするが,決してそんなことはないと思う。
『枕草子』を書き綴る彼女は物事をよく観察し,自分の感性で判断した独自の意見を持ち,キッパリとした価値観で時に辛辣に他人を批判もするが,同じように優しさや哀れみに満ちあふれた情感をもって他者を慈しんでもいる。知識自慢どころか,何とか上手に知識を活かして窮地を切り抜けられたことに安堵して日記を書いているような印象も受ける。
跋文を読む限り,そもそも彼女は誰にも読ませるつもりはなく心のおもむくままに浮かんだことを書き綴ったのだから,嫌いな人への批判や自慢話などが書かれているのも当然ではないだろうか。
清少納言本人以外の他の人々についての記述を見ても,彼女が人間に興味を持ち,人と人との関わりを面白く感じて人生を楽しんでいるせいか,どの人も目の前にいるかのように生気溢れた存在に見えた。そして,千年前の人たちも今の私たちと変わらない喜怒哀楽の中で暮らしており,人間って変わらないのだなぁと思わされた。
服装や建物の構造などの知識がないため理解が難しい箇所もあるが,千年前の宮廷人たちを,令和を生きる我々と変わらぬ感覚で身近に感じるのは面白い体験だった。
上巻
上巻は,第一二八段「恥づかしき物」(『春曙抄』巻六)まで。
多岐にわたる内容で感想など書けば切りがないが,少しばかり抜粋して記しておく。
中の関白家の肖像
宮廷章段では,特に中宮定子の家族が集まった第一〇九段(淑景舎、春宮に)が印象的だった。
貴公子然とした定子の兄の伊周,ちょっとお茶目で可愛らしい定子の弟の隆家,明朗で冗談好きな父親の道隆,上品で教養溢れる母親の貴子,可愛らしくお行儀良い妹の原子(淑景舎)など家族が集まっての歓談の様子が微笑ましい。
孫の道雅を膝に乗せて上機嫌だった道隆が,この数ヶ月後には亡くなって家族の没落が始まるのだと思うと胸が痛む。
昼に吠える犬なんて残念!?
第二二段(凄まじき物)は,冒頭から大笑いしてしまった。
「凄まじき物」とは「興ざめなこと」という意味らしいが,「凄まじき物、昼、吠ゆる犬。」で始まるのだ。番犬として飼っているのだから夜吠えてこそ相応しいのに,昼吠えるなんて興ざめよ!というのが清少納言の感性なのだ。何ともキッパリハッキリした価値観。そして誰憚ることなく言ってのける豪快さ。昼間だろうと夜だろうと吠える理由があったであろう犬が気の毒ではあるけれど。
清少納言にとって世の中は興ざめなことで満ちあふれていたようで,筆が乗って次々とがっかり案件が紡がれていく様子がまた面白い。現代の私たちの生活の場でがっかりすることと通底する内容も多く共感が持てる。
腹立たしい後朝あれこれ
第二八段(暁に帰る人の)は,共寝をした翌朝の男達の話だ。
後朝の話は『枕草子』全体を通じて意外と多く書かれていた印象だが,この段は帰って行く男達の憎らしい様子を語る筆がたいへんリアルでノリノリだ。
一晩共に過ごした女へ心を残してしみじみとしているべきなのに,お別れの挨拶もそこそこに捜し物に夢中だったり,やたらしっかり事務的かつ能率よく身なりを整えたりなどされては名残も何もあったものではない!
親しい友人から聞いた腹立たしい話なのか,それとも清少納言自身の体験なのか,憤懣やるかたなしといった書きぶりが人間味に溢れている。
父を慕う哀れな蓑虫
第五〇段(虫は)は,列挙章段としては比較的長めで,様々な身近な虫の名前を挙げて特徴を細かく挙げ,清少納言の観察眼が光る章段だ。
中でも蓑虫の話は興味深い。
蓑虫は鬼が産んだと言われ,父親は大きくなったらこの子は母親である鬼のように恐ろしくなるに違いないと信じ,ボロを着せて「秋風が吹く頃に迎えに来るからここで待て」と言い聞かせて逃げてしまった。
父に捨てられたことを知らない蓑虫は,父が迎えに来てくれると信じ,秋風が吹く度に「父よ父よ」と儚げに鳴くというのだ。
蓑虫、いと哀れなり。(略)
「ちちよ、ちちよ」と儚げに鳴く。いみじく哀れなり。
もちろん蓑虫は鳴いたりしない。そのような説話でもあったのだろうか? ともかくこの蓑虫の話は江戸時代の人々に大変気に入られた様子で,芭蕉は俳句に詠むし,芭蕉の弟子は自分の家を「蓑虫庵」と名付けるし,芭蕉の友人は「蓑虫ノ説」という論説まで書いている。
季吟は,新古今の時代の寂蓮が詠んだ和歌も紹介しているそうで,出典が未詳らしいが,本当に寂蓮の歌なら鎌倉時代の人にも蓑虫は気になる存在だったということになり貴重だとのこと。
契りけむ親の心も知らずして秋風頼む蓑虫の声 (『春曙抄』より寂蓮)
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉
公任との連歌
第一一一段(二月晦日)は,藤原公任から和歌の下の句が届けられ,急かされて上の句を返さねばならなかった時のことが書かれている。
頼りにして相談したい定子も留守だというのに,公任と一緒に名だたる教養人たちが清少納言からの返事を待ちかまえているという。歌が下手な上に返事を返すのも遅かったら何一つ取り柄がないではないか,せめて急いで返事をしなければと思った清少納言は,公任が踏まえた『白氏文集』を踏まえ,上の句を紡いだ。
慄く慄く、書きて
清少納言の手は,書きながらも緊張でわなわなと震えた。一介の女房が名高い文人貴族でり,四納言の一人として宮廷で大きな力を持つ藤原公任に応えなければならない重圧は,おそらく現代人には想像もできないほどだったのだろう。評価が悪ければ,中宮定子にも迷惑がかかってしまう。
幸いこの上の句は大成功で,同席していた男性貴族たちに絶賛されたというのがこの章段の一部始終だ。
自賛章段と思われてしまいそうだが,突然舞い込んだ重要な仕事を,誰に相談もできずに何とか成し遂げホッとした日のことは,清少納言ならずとも,ぜひ書き留めておきたいと思うのではないだろうか。
そして出来上がった連歌は,本当に素晴らしい。
(清少納言)空寒み花に紛へて散る雪に
(藤原公任)少し春有る心地こそすれ
この短連歌は,南北朝時代の連歌の大成者,二条良基と球済による連歌選集『菟玖波集』(1356年)に掲載されている。
江戸時代まで文学の表舞台に出ることはなかった『枕草子』だが,一級の文学者たちの間では知られており,こうして少しずつ言及されて存在感を示していたのだぁと思わされる。
四納言の他の3人(源俊賢・藤原斉信・藤原行成)は『枕草子』に何度も登場しているが,公任が登場するのはこの段のみだ。公任はどのような気まぐれで清少納言にこの句を送ったのだろうかと気になった。
今も昔も食べ物!?
第一〇五段(五月の御精進の程)は長めの宮廷章段だが,女房仲間の溌剌とした言動や中宮定子のお茶目な様子が描かれており微笑ましかった。
精進の月である五月は中宮定子も精進に忙しく,女房達は暇をもてあましていた。清少納言が「時鳥の声を聞きに行こう」と言い,賛同した女房仲間4人ほどで牛車に乗って賀茂の奥地へ出かける。同僚とドライブに出かけるなどという贅沢ができるところは如何にも上流階級の女性達だが,かえって現代の普通の生活に通じてわかりやすい。
出先で定子の伯父(高階明順)の家を訪問し,明順が自ら摘んだ蕨などのご馳走を頂いているうちに天気が急変。雨が降る前にと急いで帰路についた彼女達は時鳥の声を詠む機会を逸してしまった。
精進の最中で出かけることもできない定子は「まぁ歌を詠まないなんて,思い出を独占しようと思っているのでしょう」とちょっとご機嫌斜め。
後日になって清少納言たちが明順宅で出てきた蕨の話をしていると,定子は「貴女たちが思い出すのは食べ物のことだけなのね」と言い,下の句を書き散らす。「下蕨こそ恋しかりけれ」と。これに上の句をつけて時鳥を詠めというのだ。
だが,清少納言がつけた上の句は「時鳥訪ねて聞きし声よりも」というもの。
定子は「まぁはしたないこと。貴女たちってばどうしても食べ物のことなのね」と笑うのだった。
清少納言には人前で歌を詠みたくない理由があった。下手な歌を詠んで,大歌人である父,清原元輔を名を汚したくなかったのだ。
この章段の後半では,それも理解した上で清少納言が歌を詠めるように導く定子の理解と優しさが描かれている。
定子サロンの和やかな日常は,定子の教養と人柄があってこそであることがよくわかる逸話でもある。『枕草子』の中の中宮定子はいつも理知的で大らかだ。
その定子と清少納言が心の深い部分で共鳴し理解し合っている様子が心に染み入る。
仏より女性
第一二四段(正月に、寺に)は,正月に初瀬の長谷寺に詣でた時のこと。
長い章段で,ほぼ全てが寺で見掛けた人々の観察日記の様を呈している。
若いお坊さんたちが,お経を唱えたりしながら高下駄で軽々と階段を上り下りする様子や,お堂の中の参拝客たちのやりとり,夜中になっても休むことなくひたすら祈り続ける高貴な男性,母を呼ぶ幼子や我が儘な声で侍を呼び出す男の子,等々。
混雑してごった返す寺の中で,よくもこれだけ人を観察し覚えて書き記したものだと呆れるやら感心するやらだ。
身分と教養のありそうな若い男性たちが,仏様の方は見向きもしないで女性たちがいる局のあたりをぶらつき,お寺の人を捕まえては局の中にいる女性の情報をゲットしようと話しかける様子まで,清少納言はしっかり観察して書き留めている。
人々のこんな行動も,今も昔も少しも変わらないものだと読みながら思わず苦笑した。
長谷寺詣での話は,人間観察から交際論へと発展していく。
どこかに出かけるなら,使用人だけ連れて行くのではなく,自分と同じような身分と教養を持つ人と一緒に出かけ,面白いことなど語り合って共有して楽しみたいという。
彼女にとって,他人との関わりや他人から受ける刺激は生きる喜びなのだろうと,こんな文章展開からも感じたのだった。
下巻
下巻は,第一二九段「無徳なる物」(『春曙抄』巻七)から跋文の第三二五段「物暗う成りて」(『春曙抄』巻一二)まで。
名場面とされる香炉峰の雪(第二八二段)も下巻に含まれる。
後半は物語的な段が出現したり,打聞の和歌の段が連続したり,書き方に変化が見られるが,第二九六段で大納言伊周の素晴らしさを書いた後あたりから急速に筆の勢いが弱まっていくような印象を受けた。あんなにも自由気ままに筆の遊びを謳歌していた清少納言なのに,跋文の冒頭そのままに暗く閉ざされていくようで彼女に何が起こったのかと思いやられ辛かった。
上巻を読み始めたのは2024年4月。下巻を読みおけたのは2025年2月。上下巻を通して読むのに10ヶ月もかかってしまった。
しかし『枕草子』には読み通させる力が漲っていて,そんなに時間をかけていても,次の段に読み進むのは常に楽しみだった。古文には苦労させられたし,千年前の習慣や生活は意味不明なことだらけだったが,それも含めて興味深かった。
千年も読み継がれてきた本書は何度読んでも発見がありそうで,これからは,本書を常に人生の手元に携えて,ふと思い付いた段を適宜に読み返したりしたいと思う。
小さなモノは可愛い!
第一五五段(愛(うつく)しき物)には清少納言が発見した可愛らしいものが具体的に詳しく書かれている。姫瓜に顔を描いたお人形,お人形遊びの道具,小さな子どもの仕草や服の様子,雀の子や鶏の雛のうるさく鳴いて親鳥について行く様子,小さな壺に撫子の花。
「何も、何も、小さき物は、いと愛し」(小さいものはみんなとても可愛らしい)の一文は,現代のミニチュア大好きな日本人にそっくり通じていて共感できる。
冒頭近くにある雀の子についての描写が気になった。「人がチュウチュウ鳴き真似をすると雀の子が喜んで飛んでくるところが可愛い。その子雀を捕らえて愛玩していると,親雀がやってきて虫などを食べさせる様子も可愛い。」と書かれている。現代の雀は鳴き真似をしても寄ってこないし,人間に捕らえられている子雀に親雀が餌を与えに来ることもないと思う。
ここで思い出されたのが,源氏物語で源氏の君が初めて幼い紫の君を見かけた時の「雀の子を犬君が逃がしつる」(第五帖「若紫」)という部分。
当時,雀の子は今よりずっと身近な存在で,雀は今よりずっと人間を恐れていなかったのだろうか?
祭の後の帰り道
第二〇三段(見る物は)は,見物し甲斐があって面白い行事のことが書かれている。
天皇の行幸,賀茂の臨時の祭(11月末),賀茂祭(四月半ば)の翌日の「祭の帰さ」。
行幸や祭の様子は事細やかに書かれていてそれはそれで興味深いが,私がもっとも惹かれたのは「祭の帰さ」の末尾の部分だ。「祭の帰さ」とは,賀茂祭の翌日に斎院様が上賀茂神社から紫野の斎院までお戻りになる行事のことで,見物の牛車が一条通に並ぶ。
斎院様を待つ間の人々の様子や,斎院様を見送った後の皆が一斉に帰ろうとごった返す様子などが事細かに書かれていて,『徒然草』で兼好が祭見物について書いていた皮肉と共通する視点を感じた。
清少納言は皆が帰って道が空くのを待って,ゆっくりと牛車を進める。彼女は途中で見つけた卯の花で牛車を飾り,風流になった自分の牛車の様子に満足した。
ふと気がつくと,彼女の後ろから,誰が乗っているかは分からぬが男性の牛車がついてくる。「一台より後続車がいた方が楽しいわ」と思っていたが,岐路で別々の道に分かれることになった。すると,男車から使いの者がやってきて歌を詠み上げた。
峰に分かるる
これは「風吹けば峰に分かるる白雲の絶えてつれなき君が心か」という壬生忠岑の歌の引用なのだった。清少納言は,私の女車もまんざらではなかったのかしらと風雅な余韻を噛みしめる。
何と雅なことだろうか!
この時代の身分のある人たちは,共通の教養の土台の上にこのような高度なコミュニケーションを行っていたのだ。感嘆を禁じ得ない。この場面は枕草子全体を通じてとても好きな箇所で,何度も繰り返して読んだ。
このような世界では,きっと今の私たちにはない感性が培われていたことだろう。
月光と水晶
第二〇八段(月の、いと明かきに)は,たった一文の短い章段だがとても美しい。
月光の下で牛車に乗って川を渡る彼女は,飛び散る水に砕け散る水晶を重ねる。水や水晶の透明感を,清少納言は愛して止まなかったのだろう。彼女が書いた本文を読むと,月明かりに煌めく水しぶきが見えるようだ。
そして,情景が心に浮かび,あまりの美しさに惚れ惚れとしてしまうのが第二八六段(十二月二十四日)。師走の深夜,仏事の帰りに牛車に相乗りする男女の風景が描かれている。
月夜で,降り続いた雪が止んだところだった。世界は真っ白で,家々から垂れ下がる氷柱が長く短く水晶のように輝いている。男は相当な高い身分で衣装の着こなしも美しい。女は月明かりで顔を見られるのを恥ずかしがるが,男は女を引き寄せて微笑みかける。この帰り道がいつまでも続いて欲しいのに,目的地が近づいていて残念だ…。
月光と雪明かりに照らされた牛車の様子が見えるような,まるで絵画のような章段だと思う。
北村季吟は牛車に乗る女は清少納言その人であると書いているそうだ。
田植えと稲刈り
第二四六段(賀茂へ詣づる道に)には通りかかって見かけた田植えの様子が,第二四八段(八月晦日方に、太秦に詣づとて)には稲刈りの様子が書かれている。
田植えをする女たちの様子を清少納言は細かに書き留めている。「大勢で歌を歌いながら,上半身を起こしたり,しゃがんで伏せたり。そして後ずさりしていく。いったい何をしているのかしら?」と。
そう,清少納言には彼女達が田植えをしているのだとわからないのだ。しかも,彼女達が「時鳥が鳴くから私たちは田んぼで仕事しなくちゃならない。」と歌うのを聞いて,重労働する彼女達ではなく,歌で悪者にされている時鳥に同情している。清少納言が特に時鳥を好んでいたのは知っているが,それにしても?!
受領階級の下級貴族とはいえ,さすが貴族のお嬢様なのだなと驚いた。キッパリとした身分社会だったのだ。
その直後の第二四八段で稲刈りをする男達を見かけた清少納言は,ここでは稲刈りであることを理解している。
しかし「刀みたいなので稲の根元を切るのは簡単そうで面白そうだから,私もやってみたいわ!」と。いやいやいや…彼らは慣れていてコツを掴んでいるからそう見えるだけで,君がやったら簡単ではないと思うよ!
やっぱり彼女は貴族のお嬢様なのだった。
噂話は楽しい!
第二五六段(人の上、言ふを)は,噂話について書かれた段だ。どうやら清少納言は,楽しく他人の噂話をしていたところ,誰かにとがめられたらしい。
自分のことを棚に上げて他人の欠点をあげつらうことほど楽しいことはないじゃないの,水を差すなんて腹立たしい!そりゃあ相手に失礼だったり,怨まれたりすることもあるからそれは困るけれど,関係を壊したくない相手のことだったら私だって気を遣うわよ。でもどうでもいい相手だったら楽しく噂話をしたっていいじゃないの。だって噂話ほど面白いことなんてないじゃないの…。
楽しい噂話に水を差され,腹立ち紛れに弁解を書き散らしているようだ。悪いと分かっていながら我慢できずにやってしまった悪戯が見つかって,ついつい熱を入れて言い訳をしている子どもみたいな清少納言を思い浮かべ,苦笑したのだった。
藤原伊周と清少納言
『枕草子』を彩る数々の宮廷章段のとりを飾るのが伊周の素晴らしさを綴った第二九六段(大納言殿、参り給ひて)だ。一条天皇のもとに参上し漢詩文の話をする伊周。中宮定子と伊周は教養溢れる兄妹であったようで,『枕草子』ではこの二人の教養深さが幾度となく書き綴られている。
明け方近くなって宮廷で働く少女の鶏が騒ぐ事件が起こったが,伊周はこの突然のハプニングの中でもピッタリの漢詩の一句を吟誦し,一条天皇に状況を説明した。徹夜で眠かった清少納言だが,伊周の朗詠に感動しぱっちりと目が覚めたのだった。
この翌日は,たまたま局に帰ろうとする清少納言を伊周が送ってくれた。月が明るい夜で,伊周は月光の下を歩くに相応しい漢詩を吟誦しながら清少納言をエスコートする。ロマンスの香りすら感じられそうな艶やかな場面と伊周の漢詩の教養が相まって,これぞ雅が極まった宮廷の風景ではと思わされた。
跋文に記されているが,清少納言が『枕草子』を書くきっかけとなった紙は,もともと伊周が中宮定子に謙譲したものだった。藤原伊周という定子の兄がいなければ,枕草子は誕生しなかったことになる。
枕草子と切っても切れない関係である伊周の教養を褒め称える章段が,日本の随筆文学を最初に切り開いた『枕草子』の最後の宮廷章段の主役であるという事実に,何だか運命のようなものを感じてしまったのだった。
なお,伊周は父親の道隆の死後失脚させられるが,「儀同三司」として身分を取り戻し,彼や定子の母である高階貴子は,「儀同三司の母」として百人一首の作者の中に名を連ねている。
『枕草子』で中の関白家の人々の姿を知ると,百人一首も異なる目線で見られるようになったと思う。
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清少納言は,橘の子孫である私にとって1000年前のご先祖様の義姉さん。0.01ppm以下くらい?の薄い薄い縁だけど,でもその微かな縁は意外なほどの現実味で『枕草子』の中に入り込む助けになった。
彼女が描き出した彩り豊かな軌跡はとても身近なものに感じられ,その上で,自分がこの国の分厚い歴史の上に積み重なる存在として生まれてきたことを感じさせてくれた。過去を築いた多くの先人たちの文化遺産をもっと知りたい気持ちにさせてくれたと思う。