玉川上水を歩く (11) 美寿々橋・山下橋・代々幡橋

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

四谷大木戸を出発。
新宿御苑の横を通り過ぎ、新宿駅を通り抜け、
葵橋跡を眺め、西新宿の高層ビル前を通り、
玉川上水を遡る。

新宿から笹塚までの玉川上水は暗渠になっており、
暗渠の上は「玉川上水旧水路緑道」として整備されている。

代々木地区・初台地区を通り過ぎ、
西原地区の幡ヶ谷緑道を通り、
玉川上水に架かっていた橋の跡を次々と通り過ぎる。

西原地区に入って
新台橋・西代々木橋・二字橋を通り、
次に美寿々橋(みすすはし)と山下橋(やましたばし)を通る。
どちらの橋も歴史や名前の由来はわからなかった。

美寿々橋(みすすはし)
美寿々橋(みすすはし)
美寿々橋(みすすはし)
美寿々橋(みすすはし)

山下橋には「1993年12月」というプレートがついていた。
暗渠に架かる橋とはいえ、本当に橋なのだ。

山下橋(やましたばし)
山下橋(やましたばし)
山下橋(やましたばし)

山下橋には以前の古い橋の一部が残されており、
水車を模した橋のデザインについて説明があった。

昔の山下橋の名残
玉川上水と水車と山下橋について

 玉川上水は、江戸時代から私たちに限りない恵みとうるおいを与えてくれました。当時は、上水の余水を利用して水車が動き、人々の生活と強く結びついていました。ここ山下橋に人と水のふれあいが水車によって再現されています。
     渋谷区

山下橋の碑
山下橋(やましたばし)
山下橋(やましたばし)
山下橋(やましたばし)

山下橋の次にあるのが西原2丁目の代々幡橋。

この橋は『上水記』に「延寿橋」と記されており、
明治3年(1870年)の記録で「延寿橋」、
明治39年(1906年)の記録で「代々幡橋」。

『上水記』(1791年/寛政3年)は、
江戸上水の幕府公式記録。

玉川上水開削から137年後の寛政3年(1791年)に、
徳川幕府普請奉行(ふしんぶぎょう)上水方、
石野広通(いしの ひろみち)によって作られた。

主に神田上水と玉川上水の建設が記録されており、
天明8年(1788年)から3年がかりで3部作成されている。

代々幡橋(よよはたばし)

「代々幡」は「代々木」と「幡ヶ谷」の地名からで、
明治時代にこのあたりは代々幡村だったとのこと。
代々幡橋には花菖蒲のデザインがあしらわれている。

代々幡橋(よよはたばし)
代々幡橋(よよはたばし)

山下橋と同じく、古い橋の一部が脇に残されていた。
しかしこれは何と読むのだろうか?
古名の「延寿橋」ではないし、「代々幡橋」で良いのだろうか? 

古い代々幡橋の名残

このあたりの玉川上水旧水路緑道にも、
気をつけていると水道用地を示す支柱が度々埋め込まれている。

水道用地

玉川上水を歩く (10) 西原地区(幡ヶ谷緑道)

東京と縁もゆかりもない人であっても
「玉川上水」という名前は聞いたことがあるだろう。

玉川上水は、
人口が増え続ける江戸に飲み水を供給するため、
1653年に玉川兄弟によって作られた。

羽村取水堰で多摩川から取水し、
武蔵野台地を流れて四谷大木戸まで全長43km。
本企画「玉川上水を歩く」では、
この43kmを四谷から羽村まで遡って歩いてみた。

→ 玉川上水を歩く Index

玉川上水旧水路緑道(西原地区)

四谷大木戸を出発。
新宿御苑の横を通り過ぎ、新宿駅を通り抜け、
葵橋跡を眺め、西新宿の高層ビル前を通り、
玉川上水を遡る。

新宿から笹塚までの玉川上水は暗渠になっており、
暗渠の上は「玉川上水旧水路緑道」として整備されている。

代々木地区と初台地区を通り過ぎ、
幡ヶ谷駅から先は渋谷区の西原地区となり、
玉川上水旧水路緑道も「幡ヶ谷緑道」と名前を変える。

玉川上水旧水路緑道(西原地区)を示す看板

西原地区になったところに日時計があった。

玉川上水旧水路緑道(西原地区)の日時計

日時計からすぐの所に最初の橋跡、
新台橋(しんだいばし)がある。

新台橋(しんだいばし)
新台橋(しんだいばし)
新台橋(しんだいばし)

新台橋は如何にも新しいモニュメントだが、
周辺に橋のいわれなどを記す案内はなく、
ネットでも特に情報は見つけられなかった。

新台橋(しんだいばし)

幡ヶ谷緑道は脇に駐輪場があったりもせず、
遊具も見当たらず、
静かに散歩するための緑道という雰囲気。

玉川上水旧水路緑道(幡ヶ谷緑道)

たまに東京都水道局の基準点が埋め込まれており
玉川上水の暗渠の上であることを主張している。

東京都水道局の基準点(幡ヶ谷緑道)

その次にあるのが木製の西代々木橋(にしよよぎばし)。
『上水記』には「勘右衛門橋」と記され、
その後の明治3年(1870年)の記録でも「勘右衛門橋」。
そして明治39年(1906年)の記録から
「西代々木橋」になっている橋だそうだ。

西代々木橋(にしよよぎばし)
西代々木橋(にしよよぎばし)

玉川上水を調べていると度々出てくる
『上水記』(1791年/寛政3年)だが、
これは玉川上水開削から137年後の寛政3年(1791年)に、
徳川幕府普請奉行(ふしんぶぎょう)上水方
石野広通(いしの ひろみち)によって作られた、
江戸上水の幕府公式記録。
主に神田上水と玉川上水の建設が記録されており、
天明8年(1788年)から3年がかりで3部作成されている。

西代々木橋(にしよよぎばし)

緑道にはたまに案内板があって、
橋の名前や周辺の施設が示されている。

旧玉川上水ルートの案内板(西原地区)
玉川上水旧水路緑道(西原地区)

西代々木橋の次は、
西原商店街に繋がる二字橋(ふたあざはし)。
比較的新しい橋なのか、
最初の記録は明治39年(1906年)のようだ。
二字橋という名前の由来も不明。

二字橋(ふたあざはし)

代々木4丁目の三字橋(みあざばし)は
新町・初台・山谷という三つの字に架かることが由来だったので
こちらも2つの字の町を繋ぐ橋だったのだろうか。

二字橋(ふたあざはし)
二字橋(ふたあざはし)
二字橋(ふたあざはし)
二字橋(ふたあざはし)から見た緑道
二字橋(ふたあざはし)
二字橋(ふたあざはし)から見た西原商店街

橋を渡った先には昔ながらの商店街と思われる
西原商店街になっている。

NISHIHARA STREET (西原商店街)