西南の役 熊本隊出陣之所

早春の 雲は流る 形せり
ゆう二

熊本隊出陣の碑
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)

1000年以上の歴史を持つ熊本市最古の神社,健軍神社。
その門前に,西南戦争の碑がある。

西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)

西南の役 熊本隊出陣之所

 明治10年2月(西南の役)薩軍が立上って熊本に向かうと、九州各地の士族達も薩軍と提携して政府を倒そうと一斉に立上った。中でも熊本では、学校党に属する1400名が、22日早朝、健軍神社に集合して会議を開き、薩軍の熊本城総攻撃の砲声毄々と響く中で挙兵と決した。同日夕刻、神前に神楽を奏して結成式を行い、池辺吉十郎を隊長に仰ぎ熊本隊と号した。ここは同隊が出陣之第一歩を踏み出した所である。

 市内主戦関係地……熊本城天守閣内
          川尻(延寿寺・西郷本陣跡)
          花岡山砲座の跡・官軍墓地
          二本木神社境内

 =最寄りの地=
 熊本協同隊出陣の地(保田窪菅原神社境内)
 熊本城突囲隊出撃の所(白川右岸大甲橋下流)

   熊本市

西南の役 熊本隊出陣之所 説明版

西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)

明治10年2月22日。
碑に「早春」と刻まれているが,
2月下旬の熊本は,既に早春の佇まいなのだ。

肥後(熊本)の士族の若者約1400名が,この地で挙兵を決した。
そして同夕刻,神前で結成式を行い,薩軍の援軍として出陣した。

熊本鎮台が置かれた熊本城は薩摩軍に包囲され,
繰り返された激戦の中でも,3月の田原坂の戦いはよく知られる。
乃木希典少佐が薩軍に軍旗を奪われたエピソードも有名だ。

西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)
西南の役 熊本隊出陣之所(2021-10-18)

下は,記念碑の前から見る,健軍神社の楼門。
この鳥居のから参道を眺めると,
測ったように真正面に雲仙岳が見え,敬虔な気持ちになる。

健軍神社(2021-10-18)
健軍神社(2021-10-18)

熊本市で生まれ育った私は,西南戦争の名を聞くと,
ちょっと切なく,ちょっと誇らしい気持ちになる。
熊本城天守閣が,この戦争で焼け落ちたから。
それでも清正公の熊本城は,薩軍に負けなかったから。

熊本城が焼け落ちた日のことは,
明治元年・熊本生まれの軍人,石光真清の手記『城下の人』に詳しい。
西南戦争からロシア革命まで,歴史の隙間を綴る4冊の手記は一読に値する。

私の曾祖父の弟は,熊本隊に加わり18歳で戦死したそうだ。
そう聞くと,この碑は自分の存在とそう縁遠いものではないと思え,
ここに来ると,この地の歴史の中で育ったことに想いを馳せる。


下は2004年,2005年に撮った同じ場所。
鬱蒼と木々に囲まれていたのだが,
2021年秋に訪れたこの場所は,ひどく明るくサッパリしていて
少々面食らったのだった。

西南の役 熊本隊出陣之所(2004-06-17)
西南の役 熊本隊出陣之所(2004-06-17)
西南の役 熊本隊出陣之所(2005-04-04)
西南の役 熊本隊出陣之所(2005-04-04)

三菱重工業(株)熊本航空機製作所の工員宿舎

少し前の写真になるが,記録のために記しておく。

熊本へ帰省すると,私は夕刻の父の散歩に付き合うようにしている。
そのいつもの父の散歩コースに,
熊本の歴史を刻んだ建物がひっそりと建っていた。
太平洋戦争の最中,戦火を逃れて愛知県から熊本県へ場所を移した,
三菱重工業(株)熊本航空機製作所の工員宿舎の最後のひと棟だ。

2018-04-13

震度7を記録した2016年の熊本地震でも倒壊することなく,
既に無人ではあったものの,家はそのままの状態で残っていた。

このあたりは熊本市の中でも震源地の益城町に近い場所なのだ。
私の実家は半壊だったし,近所でも赤紙・黄紙続出。
地震のあと既に多くの家が建て変わり,更地も増えた。
この家はよく残ったものだと思う。瓦も健在ではないか!
きっとしっかり建てられた家だったのだろう。

2018-04-13

2018年当時82歳だった父によると,
この家は家族がいる工員用の社宅だったのだそうだ。

「水菱園」という名前で,
戦時中,三菱重工の社員が住んでいた当時は,
この周囲にずらっとたくさん同じ家が建っていたとのことだ。

また,少し離れた場所には,
独身者向けの,これより小さな工員宿舎が並ぶ場所もあったという。

2018-04-13

この地区の小学校,私の父も通っていたその小学校には,
愛知県から多数の子供達が転校してきた。

愛知県出身の三菱重工社員の子供たちは,
良い教育環境で育っていて,勉強ができて成績優秀だった。
対し,この地域の地元の子たちは違った。
勉強に重きを置かない家庭の子が多く,
愛知県から来た子供達にみな劣等感を抱いていたそうだ。
地元組の中でもっとも勉強ができた私の父は,
地元の名誉のために良い成績を期待され頑張ったとのこと。 

2018-04-15

阿蘇を望む熊本市の東部には,
かつて三菱重工が存在した名残が今もたくさん残っている。
戦争の記憶を持つ人も少なくなった今,
それらは熊本市の風景にすっかり馴染み,誰も注意を払ったりしない。
 
けれど,水前寺が終点だった熊本市電が,
今の健軍終点まで延びたのは,三菱重工のためだった。
小学生だった私が社会見学で行った井関農機や中央紡績の工場は,
三菱重工の跡地を利用して建っていた。
現在の陸上自衛隊健軍駐屯地もそうだ。

三菱重工の試験飛行場は,
熊本空港が現在の位置に移転する1971年まで,
熊本飛行場として使用されていた。
私は古い飛行場をよく覚えている。

2018-04-15

2018年4月に撮ったこれら写真が,水菱園の最後の写真になった。
2018年10月27日,
帰省して,いつものように父の散歩に付き合って歩いてみると,
水菱園の最後の1棟は取り壊され,空き地になっていた。

2018-10-27

空き地になった土地を見つめて,しばし呆然と立ち尽くした。
遙かな昔の風景が,
とうとう歴史の向こうへ霞んで消えてしまったのだ。

時代は巡り街は変わってゆく。
歴史の記憶は街の中に溶け込んで,
意識せぬままに受け継がれてゆくものなのだろうと思う。
三菱重工が残した熊本と愛知の絆は,
今も確かに熊本に残っていて,私はたまにそれを見つける。

水菱園の最後の姿を記録できたことは本当に良かった。
きっと今頃,ここには誰かの新しい生活が生まれているのだろう。


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