私のあしながおじさん

「私のあしながおじさん」は世界名作劇場の第16作目。
1990年1月~12月に放映されたテレビアニメだ。
平成2年度文化庁子供向テレビ用優秀映画賞を受賞している。

原作は、アメリカの女性作家
ジーン・ウェブスター(Jean Webster, 1876-1916)による
『あしながおじさん』(Daddy-Long-Legs)。

1912年に発表された作品だ。

孤児院で育った少女ジュディは、
ユーモア溢れる作文で資産家の目にとまり、
上級学校へ進学することになる。
条件は後見人となる資産家に報告の手紙を書くこと。

ジュディの手紙のみで構成される原作に従い、
アニメでもジュディが書いた手紙の文面を交えつつ、
生き生きとした学校生活が描かれる。

20世紀初頭のアメリカの家具調度品、
あるいは街の風景や店に並ぶ服など、
アニメならではの視覚情報が魅力的だ。

原作では物語の最初でジュディは16歳だが、
子供向けのアニメということで、
ジュディの年齢設定は13歳に変更され、
進学先も大学ではなく高校になっている。

孤児院出身のジュディは、
上流階級のお嬢様が集う学校で経験を積み、
生い立ちへのコンプレックスを克服し、
少しずつ大人になっていく。

ジュディと共に、
ルームメイトのサリーとジュリアも
各々経験を積んで大人になっていく。

アニメ前半は学校生活での3人、
後半は3人それぞれの恋愛と未来に焦点が移る。

このアニメはたまに見たくなって、
今回の視聴は3回目くらいだ。
最近は、配信サービスで
好きなときに好きなものを見られ大変嬉しい。

以前に見たときに比べ自分の年齢が上がり、
また精神年齢も上がったのだろう。
見る度に自分の立ち位置というか、
物語を見る角度が異なっていくことを感じる。

以前に比べたらジュディの苦しみや思い込みが
若さ故の子供っぽいものに見えるし、
それが魅力であることもよくわかる。

また自分が子供でこの本を読んだ頃は、
気持ちがジュディに寄り添っていたため、
金持ちのお嬢様であるジュリアに
ちっとも魅力を感じていなかった。
だが、今ではジュリアの魅力がよくわかるし、
ジュリアをとても愛おしく思える。

こういう子供の頃から知っている名作は、
折に触れ,長い人生の課程で
何度か読み返したりしてみると
当時とは違う景色が見えて楽しいものなのだと、
年を取ってきた最近よく思うようになってきた。

そのうち「ハイジ」も見てみたい。
よく考えてみたら、
美味しそうなチーズとふかふかの藁布団、
そしてクララが立ったことしか覚えていないのだ。

「私のあしながおじさん」は
下記の動画配信サービスで視聴することができる。

・dアニメストア(定額見放題)
・バンダイチャンネル(定額見放題)
・U-NEXT(定額見放題)
・FODプレミアム(定額見放題)
・TSUTAYA TV(レンタル)
・ビデオマーケット(レンタル)

アニメは全部で40話になるが、
90分にまとめたDVDも発売されている。

また原作の『あしながおじさん』は最近新訳が出た。
電子書籍でも出ているので読んでみたいと思う。
北川悌二翻訳版なら Kindle Unlimitedで
無料で読めるのでこちらもお勧めだ。

ところで原作表題「Daddy-Long-Legs」とは、
非常に脚が長い、蜘蛛に似た動物、
ザトウムシ(Daddy Longlegs)のことだそうだ。
この名前もジュディのユーモアそのものなのだった。

名作をお伴に秋の夜長を楽しもう。
きっと発見がいっぱいだ。

武蔵野(国木田独歩)

『武蔵野』は国木田独歩による有名な随筆。
青空文庫などで無料で読むことができる。

国木田独歩は1871年(明治4年)生まれ。
千葉県に生まれるが、役人だった父親の転任先を転々とし、
山口県や広島県で少年時代を過ごした。
1887年に上京し、早稲田大学の前身、東京専門学校に入学。

1896年(明治29年)に渋谷村(現在の渋谷区)に住み始め、
『武蔵野』は、その2年後の1898年に、
『今の武蔵野』という表題で発表された。

独歩は『武蔵野』の中で武蔵野の範囲を定義しているが
その定義によると渋谷は武蔵野に位置している。

そこで僕は武蔵野はまず 雑司谷 から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。

『武蔵野』国木田独歩

独歩の定義によると、
多摩川が流れていない八王子は武蔵野でなく、
武蔵野台地の上であっても
大名屋敷跡などがある東京中心部も武蔵野に含まれない。

『広辞苑』による武蔵野の定義は
埼玉県の川越と東京都の府中市の間に広がる地域ということで、
独歩の定義とは少し異なっているかもしれない。
「武蔵野」の定義は様々で、正解というものはないのだろう。

山口や広島など中国地方で育った独歩は、
楢の木によって形作られた武蔵野の風景に魅了され、
武蔵野の自然の美しさを事細かに語る。

さまざまの光景を 呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。

『武蔵野』国木田独歩

また、武蔵野を歩く楽しさを情熱的に訴える。

武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。

『武蔵野』国木田独歩

詩人としても活躍した独歩の観察力と語彙力は、
120年前の武蔵野の風景や人々の生活を、
まるで映像でも見るように生き生きと描き出す。

武蔵野地方を吹き抜ける強風も、
独歩の手にかかると、こんな具合だ。

風が今にも梢から月を吹き落としそうである。

『武蔵野』国木田独歩

小金井市の玉川上水に架かる桜橋には独歩の碑があり、
また、桜橋のすぐ近くには独歩橋なる名を持つ橋もある。
『武蔵野』の中で、
独歩は夏の日の友人との散歩の思い出をこう語っているのだ。

自分はある友と市中の 寓居 を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ 真直 に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の 掛茶屋 がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。

『武蔵野』国木田独歩

なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚かにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。

『武蔵野』国木田独歩
桜橋の近くにある国木田独歩の文学碑
『武蔵野』に登場する小金井の桜橋
桜橋にある説明版。独歩の『武蔵野』にも言及されている。
玉川上水にかかる小金井市の独歩橋

独歩がどれほど武蔵野を愛し
武蔵野の自然に溶け込んでいたかが感じられる。

「田舎」とか「都会」という言葉が指し示す状態に
時代の差こそあれ、
独歩の時代も現代も、
武蔵野という地域の魅力は
独歩が下のように書いたそのままなのではないだろうか。

大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。

『武蔵野』国木田独歩

武蔵野という地域を知っているのなら、
行ったことがあるのなら、
行ってみたいと思うのなら、
国木田独歩の『武蔵野』は
120年経っても一読に値する名著であると思う。

青空文庫を元にしたKindle本なら0円で読むことができる。