東京都水道歴史館 (2) 明治~現代の上水道

文京区本郷にある東京都水道歴史館は、
東京都水道局が自ら運営する
近代~現代の東京の水道について無料で学べる博物館。

入館したら、まず2階の江戸時代の上水道コーナーを見学し、
1階へ下りて明治~現代のコーナーを見るようになっている。
まず冒頭から驚いた。
江戸幕府の崩壊で水道も危機だったんだ!
言われてみれば当然のことなのだが、考えたこともなかった。

明治維新後の水道整備

現在の玉川上水や跡地、あるいは河川や公園でもそうだが、
やたらと「○○しないで下さい」という禁止の看板が多い。
なんてつまらない社会だろうと思っていたが、
それは今に始まったことではなく、昔から日本はモラルが低かったのか…、
と残念に思ったのだった。
太宰治なんて人様の飲み水たる玉川上水で自殺するモラルの低さだし…。

水道設備の整備について書かれた新聞記事

水道整備が進められた明治時代の水質調査の記録。

東京市水質試験成績報告書

蛇体鉄柱式共用栓(じゃたいてっちゅうしききょうようせん)
明治~大正時代に使われた共用栓。
水の出口が竜を象っていて、これが「蛇口」の語源となった。


蛇体鉄柱式共用栓
水圧計・濾過器模型・消火栓・蛇体鉄柱式共用栓

ロンドン市牛馬水槽協会から東京市に寄贈された馬水槽(ばすいそう)。
牛馬用、犬猫用、人間用の3つの飲み水場が設けられている。
明治39年(1906年)に東京府庁舎前に設置され給水開始。
大正7年(1918年)に水道局庁舎寄りに移転され、
昭和32年(1957年)までそこで給水に使用された。
現在は新宿駅東口に設置されている。

馬水槽(ばすいそう)

水道提供範囲が広がり水道料金の統一化が進み、
配水量は増加し、水道財政は減収。
水道普及活動の一環として、東京市水道局からこのしおりが配布された。

水道のしほり(十万栓普及宣伝しおり)

東京オリンピックが行われた昭和39年(1964年)、
「東京サバク」と呼ばれた渇水が起こり、
武蔵水路を建設し、新たに利根川へ水源を求めた。

高度経済成長と利根川水系の開発

陶製の蛇口は金属製の代用として試作されたものの使われなかった。
プラスチック製の蛇口も同様に金属製代用として試作されたが採用されず。

色々な蛇口

明治31年(1898年)東京市に近代水道が誕生。
自宅まで水道をひけない人たちのために、
鍵で管理する共用栓があちこちに設置され市民に水を届けた。
共用栓は関東大震災の頃まで使われ、文明開化の風物詩だった。

明治時代の共用栓

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で水道施設は大被害を被った。
全力で給水の回復に努めた結果、同年12月にはほぼ平常に復旧。
水道が重要なライフラインとして認識された。

関東大震災後の給水

昭和30年代、東京には多くの団地が建てられた。
団地には風呂や水洗トイレが備え付けられ
人々の生活が大きく変わった。
洗濯機も普及し家庭で使用する水の量は急増した。

高度経済成長時代の家庭の風呂場

現在の東京の上水には高度浄水処理が施されている。
従来の浄水処理に加え、オゾン処理と生物活性炭吸着処理を組み込み、
高度浄水処理を行った東京の水道は格段に水質が向上した。

高度浄水処理のしくみ
取水塔をイメージした1階の展示風景

エントランス前にいるのは水滴くん。

水滴くんは、東京都水道局のキャラクターだ。
けっこう詳しいプロフィールが用意されている。

平成2年3月31日生まれ、おひつじ座。
出生地は笠取山(かさとりやま)山頂付近で、本籍は雲の上。
現住所は東京都新宿区西新宿二丁目8番1号。
身長と体重と足の大きさは、本当は無限大だが、
いつもは80mm、80g、27mmの小さいサイズになっている。

水滴くん

次回は東京都水道歴史館に隣接する本郷給水所公苑を紹介します!

東京都水道歴史館 (1) 江戸時代の上水道

東京都水道局が自ら運営する
近代~現代の東京の水道について学べる博物館。

東京都水道歴史館

 所在地:文京区本郷(御茶ノ水駅から徒歩8分)
 入館料:無料
 休館日:年末年始・第4月曜日(休日の場合は翌日)
 開館時間:9時30分~17時(入館16時30分まで)

実物模型を駆使した大変充実した施設。
まず2階の江戸時代の水道の歴史を見学し、
その後、1階で明治から現代の水道について学ぶ。
3階は図書などを自由に閲覧できる資料室になっている。

神田上水に始まる上水道の一覧

2階展示の最初にあるのが、
昭和44年(1969年)に旧尾張藩屋敷跡、
現在の東京駅地下から出土した「角型木樋(もくひ)」。

角型木樋

お茶の水と水道橋の間には水道専用の橋「懸樋」が架かっており、
神田上水はその「懸樋」を通って神田川を越え、
神田・日本橋方面へ水が送られていた。

「水道橋」の地名の由来になった「懸樋(かけひ)」

旧都庁舎跡地から出土した上水施設を再現した模型。
木樋の蓋には一枚板が使用されたり、
水の流れる方向と木目を揃えたりなど、
水を無駄にしないための工夫や知恵を見ることができる。

旧都庁舎跡地 31号木樋の一部を再現した模型

続いて、小石川上水に始まる江戸上水の誕生の歴史。
地図と模型とビデオを組み合わせ、わかりやすく説明されていた。

水の道の夜明け
丸型木樋、角型木樋、丸形木樋用継手などの実物模型。

江戸の町人の多くは下の模型のような長屋住まいで、
長屋には必ず共同の井戸があった。
井戸には表通りから引いてきた上水をため、
さおつるべで水をくみ上げていた。
表通りから水を引いてくるためには、
石や木でつくられた樋(水道管)が使われていた。

長屋の井戸端風景の模型

安定して安全な水を供給するために
江戸時代も様々な制度が設けられていた。
神田上水・玉川上水の普請修復のために
武家や町人から普請金(ふしんきん)が徴収された。

ほかにも水番人の給料などに充てられる「水銀(みずぎん)」
玉川上水沿岸の茅を刈り取る権利に課せられる「茅年貢(かやねんぐ)」
玉川上水から分水を受ける農村では村単位で「水料(みずりょう)」
羽村堰の筏通路を利用する場合は「筏通場運上(いかだとおしばうんりょう)」
神田上水白浚いの費用「神田上水白堀通浚賃銭(しらぼりとおしさらいちんせん)」
などなど、必要に応じた費用が集められ水道が維持された。

天候の影響を受けやすい水を正しく分配するために
羽村、砂川村、代田村、四谷大木戸、赤坂溜池には水番屋が設けられ
分水の水量調節を行ったり、汚れを防ぐために見回りを行った。

水番屋
水番屋

江戸時代の長屋が実物大で再現され、
当時の生活の息吹を感じながら、井戸や台所、厠など、
水を使う設備を見学できる。

実物大の江戸時代の長屋
長屋の共同井戸

各戸の入り口、台所の横には水瓶があった。
水瓶は最後の水まで無駄なく使えるように底が細くなっており、
倒れないように四角く組んだ木枠の中に置かれていた。

水瓶

水瓶の横には流しと竈があって、
この3つがセットになっていた。

長屋の台所

水場にはお稲荷さんがつきもの。
長屋の一角にはお稲荷様が祀られる様子も再現されていた。

長屋の稲荷神社

この時代に水道があったのは江戸だけではない。
藩政時代の水道は日本全国の主な都市にこんなに作られていた。

藩政時代の水道地図

次回は明治~現代の水道展示について紹介します!