大砲とスタンプ

兵站を描く希有なコミック

  • 大砲とスタンプ(全9巻)
  • 著者: 速水螺旋人(はやみ らせんじん)
  • 出版社: 講談社
  • 掲載: 『月刊モーニングtwo』2011年~2020年

 『大砲とスタンプ』は,講談社『月刊モーニングtwo』にて2011年~2020年に連載されたミリタリー漫画。全83話,9巻で完結している。
 架空の国,「大公国(この世界のウクライナからロシア西部あたり)」と「帝国(同ポーランドあたり)」の連合軍(同トルコあたり)が「共和国」と戦っており,舞台は連合軍が占領している共和国領土アゲゾコ。
 アゲゾコはこの世界の黒海北部,ウクライナあたりに位置している。

 主役は「紙の兵隊」と呼ばれる大公国兵站軍の新米女性将校マルチナ。
 武力による戦いではなく,武力を行使する人々を物資から支えることにより軍を機能させ勝利に導くのが兵站軍の戦い。兵站が機能していなければどんな軍隊にも勝ち目はないのだ。兵站という,戦闘ではない軍の生活を詳細に描く希有なコミックだ。

 各話の終わりには,その話に出てきた独創的な兵器の説明が事細かく解説されており,ミリタリー設定マニアの想像を膨らませてくれる。
 大公国はキリル文字を使いウォトカを好んで飲む土地柄なので,ロシア文化が好きな方にも楽しいエピソードが満載だと思う。

 ソフトな絵柄でコミカルに物語は進んでいき,ミリタリーに詳しくなかったり馴染みがなかったりでも読みやすいのだが,戦争の暗部はしっかり折り込まれている。
 主な舞台になるアゲゾコは連合軍が占領した土地で,地元のゲリラまで活動している混沌な状態,いわば最前線。それゆえ容赦なく見事に人がどんどん死んでしまうのだ。これだけ死体が度々登場し人がどんどん死んでいく漫画も少ないかもしれない。

 出てくる登場人物の数は多いが,みな個性豊かで魅力的。生き生き描かれているので覚えられずに困ることもなかった。大好きな登場人物達が願わくばみな生き残って欲しいのだが…それも叶うまいか? そう思いながら読み進んだのだった。

 以下,大まかな各巻の紹介や感想。
 物語の内容に触れるので多少のネタバレはあるが,根幹に関わるネタバレはしないよう自分の備忘録をかねて書いた。


大砲とスタンプ(1)

 士官学校を卒業し初めての任地へ赴く,大公国兵站軍のマルチナ・M・マヤコフスカヤ少尉。彼女が配属されたのはアゲゾコ要塞の兵站軍,管理第二中隊だった。

 輸送や補給が任務の兵站軍は「紙の兵隊」などと嘲笑われているが,マルチナはお仕事大好き書類大好き。キッチリと事務仕事をこなすことに生きがいを感じている。
 兵站の仕事に関しては有能な彼女だが,安全装置を外さず銃を使おうとしたり,軍人としてどうよ?という側面も。

 基地での現実を知らない新米少尉としてバカにされたりしながらも,やる気と気合いと正義感で仕事に突進するマルチナには,ほどなく「突撃タイプライター」という渾名がつく。
 赴任の時から彼女に懐いて周りをチョロチョロ動きまわるイタチモドキの名前がスタンプだ。まるでスタンプを押したかのように書類に足跡をつけたのが名前の由来。マルチナにつきまとう姿は,ちょっと魔法少女に付属する小動物を思わせる。

 彼女を中心に軍の内情が色々と描かれていくわけだが,軍用メカの解説は非常にマニアック。次々に起こる事件は現実にありそうなことばかり。登場人物も一々個性的で面白い。
 マルチナの直属上官のキリール・K・キリュシキン大尉は,軍人名門一家の出身だが,軍の仕事にそれほど興味がなく,SF小説を書くのが趣味。おっとりしていてマルチナと対照的。一見あまり仕事をしていないようだが,周りをよく見ている。マルチナとは良いコンビニなれそうだ。


大砲とスタンプ(2)

 第二中隊にキリールの異母弟コースチャが配属される。マルチナは中尉に昇進。
 コースチャは武勲を立てたがっているが空回りばかり。マルチナを姉のように慕うようになる。

 底知れぬ悪役っぽい雰囲気を漂わせる陸軍憲兵スィナン・カライブラヒム中尉が登場。
 イイダコ高地に出張したマルチナは,そこで戦闘に巻き込まれ唯一の将校として指揮をとることに。波瀾万丈な日常の巻。


大砲とスタンプ(3)

 共和国美人なボイコ曹長の奥さんの話に,ある日突然降ってきたジュウキェフスキ十字勲章。勲章が羨ましそうなコースチャ君が超かわいいのだ。
 仕事やる気ないキリールさんだが,人を見る目は持っていて人の動かし方も知っている。スィナンの胡散臭さもすぐさま調べ,マルチナに接近する彼を警戒するが,そもそも人の良いマルチナはのほほんとしていて,読者の方もやきもきさせられる。

 アカベコ村の共和国軍補給基地の争奪作戦は,マルチナ,コースチャ,アーネチカの3人。マルチナは初めて飛行機に乗る! なかなかハードな任務だが,それを知りつつ「まあお前なら大丈夫だろ」と送り出すキリール。部下の能力と運を信頼しているのか何なのか。

 麻薬騒動を調査するマルチナは,明らかに怪しいスィナンに何の疑いも持たず,事務仕事は一級品で正義感も強いのに,とんでもないお人好しさを発揮する。マルチナの救助に向かうのは第二中隊でも手練れの二人,ボイコ曹長とアーネチカ。マジ頼りになる二人だ!

 そして,そんなアーネチカの過去のこと。
 字の読み書きができないアーネチカに,かつて字を教えてくれようとしたリーザンカという人物がおり,彼女たちがいた場所は北極圏の女子監獄船。そこでアーネチカは「野良猫アーネチカ」と呼ばれていたのだった。

 アーネチカはスラム出身,威勢の良い下品な言葉で啖呵を切ったり,ナイフ一本で荒事を解決する。しかも美人だ。『大砲とスタンプ』きっての魅力的なキャラだと思う。

 後半は新年の帰省の物語。
 キリールに促されて休暇をとって実家へ帰ることにしたマルチナ。だが本心では苦労して帰るより仕事をしていた方が楽だなんて思っている。そんな彼女に声をかけたのは帝国のラドワンスカ大佐だった。

おのれルーチンを 圧迫する 年中行事め~
新年なんて 来なきゃ いいのに!

p.137 マルチナ

将校とは考えることが任務だ
単に命令を遂行するだけでは良い将校とはいえん
頭を日課から切り離して考える余裕を取り戻す
余裕のない将校に指揮される兵は不幸だよ
休暇も任務のうちと考えるといい

p.147 ラドワンスカ大佐

 マルチナが帰省している間,キリールとスィナンは雰囲気が悪い会談を行う。
 また,スィナン自宅に訪れる抵抗運動家(1巻から最終話まで登場するのに最後まで名前がわからない男)とスィナンの間でも物騒な会話。
 アゲゾコでは幾つもの勢力が蠢いているのだった。

 スィナンの企みによって土俵に引きずり出される第二中隊だが,キリールはふにゃふにゃしているように見えても頭の良い男。「兵站軍には兵站軍のやり方があるってことさ」とマルチナを呼び戻し「手を抜かず存分にやれ存分にだ!」と言い渡す。
 存分に仕事をするマルチナの恐ろしさが非常に面白い。

決まりは決まりです!
大きな間違いは小さなミスから!

p.41 マルチナ

大砲とスタンプ(4)

 計算機こわれるの件。
 根回しや交渉で不可能を可能にしていくキリールは,マルチナとは異なった方向から兵站軍の戦い方を心得ているという感じで,次は彼がどんな作戦でこれを乗り切るのかと,何か起こるたびにワクワクする。電子頭脳室火事というかなり詰んだ災難も何とかしてしまった。
 ついでに,キリールのSFが,実は国際的に(一部に)人気らしいとマルチナにわかってもらうことまで成功。

 大公国と帝国の合同上級者作戦会議で,初めて帝国へ行くマルチナとお供のアーネチカ。
 帝国といえばラドワンスカ大佐だ。彼女は国へ帰れば「ガブリエラお嬢様」なのだった。若き日のラドワンスカ大佐の物語は見逃せない。

 帝国によくいる鳥,ニセネココウ。幸運を呼ぶ鳥と呼ばれているらしいが大活躍。
 命令書のカバン事件が起こるが,アーネチカが一々逞しく,マルチナと反対方面で有能で感心する。
 第29話「中尉時代が夢なんて後からほのぼの思うもの」などというパロディは,最近の若い人には通じないと思うが私には受けた。

 キリールやコースチャのおじいさん,クリム・M・キリュシキン元帥閣下のユキンコ行きのお伴をすることになったマルチナ。
 護衛にはいつもの胡散臭い憲兵中尉がいるのだった。スィナンがいるところでは常に何か物騒なことが起こるのだ。


大砲とスタンプ(5)

 ちょっと都合が悪いとさっさと人を殺してしまうスィナン。だが,ユースフのことは意外と本気で可愛がっているっぽい。「兵站軍は不公平を許しません!」で,マルチナも本気で気に入られたかもしれない? だがスィナンは気に入っても不都合になったら気軽に殺す男なのだ。

 マルチナは持ち前の書類フェチを活かし,キリュキシン元帥を救う。紙は大切なのである。しかし相変わらず武器を取って闘うことだけは本当に士官学校を卒業できたのだろうかと疑うほどダメダメすぎて,どこぞのヤン・ウェンリーを思い出させる。

 日記が大切な眼鏡の新人補充兵ディーマ。偶然彼を助けるアーネチカ。アーネチカが現れた時点でもう大丈夫と思えるのだから,アーネチカはマジ頼りになるカッコイイ奴だ。

 国債割り当てノルマの話。
 マルチナは二日酔い街へアーネチカを探しに行くが,そもそもそこは,マルチナ向きではないいかがわしい場所だ。アーネチカに保護されなければどうなっていたことか。なんだかんだとマルチナはいつもとても運が良い。
 「ウンコな今日は雌犬に…」(言えないどころか書けやしない!)などという下品な言葉で堂々と啖呵を切れるアーネチカには,ある種の憧れさえ感じる。是非マルチナの横にいて守ってやってほしい。

 アゲゾコスペシャル醸造所探し。
 謎の美味しい酒の出所を探し回る物語。遺跡のようなアゲゾコ要塞には謎が空間がいっぱいなのだった。

 資金工面のために中立国を作っちゃうキリールは,さすが想像の世界で生きている人だ。しかし,せっかくSF(ファンタスチカ)趣味で繋がり仲良くなった共和国のデュラン少佐は…?

 ルールーちゃんの赤紙ラジオでは,どこぞのリリー・マルレーンのことなどをちょっと思い出した。最後にまたスィナンの怖い影。


大砲とスタンプ(6)

 赤紙ラジオと放送事故と暗号解読。辞書と文法書を片手に頑張るマルチナは勉強家だ。だが関係者を増やしたくないと言いつつ最も怪しいスィナンを頼るお間抜けなのだった。この回もアーネチカがラジオ放送でぶちかました下品な啖呵が冴えていた。おかげでアーネチカは人気パーソナリティに?

 親大公国感情醸成のための軍と市民の交流イベント,要塞まつり。
 映画好きな「抵抗運動家」(名前不明)氏と共和国工作員のエミーネ中尉が要塞まつりにやってくる。自分の中の筋を通す抵抗運動家君が小気味よかった。最初はただの怖いテロリストな印象だった彼の人間味が少しずつ描かれてゆく。
 まつり屋台(兵站軍カフェ「メガネちゃん」)のためのマルチナの料理教室や,当日のバニーなマルチナなどがレアな見所。マルチナは任務とあらばバニーガールの格好も意外とこなすのだった。要塞まつりのコースチャは必見。非常に可愛い上に有能だ。

 新人補充兵のディーマ君と抵抗運動家氏,二人でアゲゾコ巡り。抵抗運動家氏は地元愛ゆえの抵抗運動家なのだとよくわかる話だった。

 カタクリコ鉄橋破壊による一連の事件が始まる。
 進路を断たれてマルチナたちが立ち寄ったミエシュコ村での,村長の娘メルテムとの出会い。マルチナの将来に大きく関わる出会いとなる。

 今まで見たことがなかった管理第二中隊の中隊長,エロフェーエフ少佐が登場。時を同じくしてキリールの本が賞をとる。キリールの留守中にマルチナはメルテムと再会。
 そして,匪賊対策「羊飼い作戦」が始まる。匪賊と住民を切り離し後方の治安を回復する作戦で,マルチナは支援任務につく。作戦を指揮するのは「黒死病連隊」のグロム中佐。
 しかし,共和国軍も大公国軍も通る,メルテムのミエシュコ村は疑われてしまう。
 泣き崩れるマルチナを,一緒にいたトイチロヴスキイ兵長が連れ帰る。

 頑張り屋で有能だけど世間知らずなマルチナを,キリールもアーネチカもボイコも影ながら心配して守っているところが好きだ。


大砲とスタンプ(7)

これは呪いのしるしだよ マヤコフスカヤ中尉
祖国の人びとのかわりに 無辜の者を殺し街を焼き孤児をつくる
その代わり 格好良い制服と勲章がもらえる
それが将校だ 君も呪われているのだよ

p.15 ラドワンスカ大佐

 一般人虐殺を目の前にし,PTSDになってしまったマルチナ。
 過去の戦争犯罪ファイルから,エロフェーエフ少佐にも辛い過去があったことを知る。
 仕事ができず,キリールの勧めで休暇を取って故郷へ帰ることにする。「戻ってこい!」というキリールの力強い声に見送られ,マルチナは故郷へ向かった。

故郷ではぼーっとするな
家の手伝いでも散歩でもいい
人と会え 話をしろ
仕事以外で忙しくするんだ
なにか得るものがあるさ

p.24 キリール

てめえの地獄に
てめえ一人で行きやがれ!

p.25 エロフェーエフ少佐 

 マルチナがいない管理第二中隊でコースチャが頑張っている。キリールがコースチャに語るのは,ボイコ曹長の過去の物語。ボイコと奥さんの出会いのことも!

 第57話「戦場は遠くにありて思ふもの」
 各話の題名が一々読み解くべきコンテンツになっているのがこの作品の楽しさの一つ。これは室生犀星だ。

 というわけで,故郷に帰ったマルチナの物語。
 PTSDは,軍人が通らねばならない苦しみの一つなのかもしれない。
 兄は召集されて軍曹に。故郷の映画館の館主であるドプチンスキイ神父が孫がいるほどの年齢なのに招集されていることに驚くマルチナ。
 どうにもならない不条理が存在する。両親はそんなマーリャに昔話を聞かせるのだった。

ハンコ押すだけなら機械でいい
ハンコの向こうに何があるかを想像するんだ
そうやってるとな いつかわかるんだよ
正念場ってのが来たときな
このために自分はいたんだという
その正念場を逃がさないことだ

p.123 マルチナ父

 一方,アゲゾコではキリールが楽しそうだ。
 軍には招集された漫画家や小説家など,多くの専門家がいる。キリールは彼らを集めて楽しく軍の新聞『熊騎士』作りに励んでいたのだった。しかし,マルチナがいないため兵站の仕事が滞り…。スィナンも,たまには悪事以外のことをやるらしい。

 ラドワンスカさんは少将に昇進し帝国参謀本部へ栄転。

 とうとうマルチナがアゲゾコに帰ってくる。たくさんの懐中汁粉を携えて!
 帰ってきたマルチナは,気象隊観測所との打ち合わせのため,アーネチカと一緒にステテコ島へ出かける。ステテコ島は温泉島なのだった。
 中尉さんはけっこう偉いので,何か起こると最先任になって大変。そして野生の勘を持ったアーネチカは今回も大活躍なのだった。


大砲とスタンプ(8)

 冒頭は第64話「地獄の沙汰も会議次第」。ポクロフスキー師にリハチョフ師,初めて軍の聖職者,従軍司祭が登場する。当然ながら兵站軍は聖職者たちにも物資を提供している。
 大公国の国難を救ってきた至玉「聖戦の女神像」がアゲゾコ戦線へやってくることになり一騒動。

 また,兵站軍にはいつのまにか「タイプライターギャング」という渾名がついていた。物資横流しギャングとタイプライターギャングの戦いが始まる。

 第68話「胸に痛みがあります」は勲章の商売の物語。
 勲章をつけていれば女にもてる(と信じている兵が多い)し,家族に送る写真で勲章をつけていると格好がつくのだ。

人はな 本物の敵より
敵の服着た身内が憎いもんや

p.134 アゲゾコ軍団ユルドゥズ大尉

ドン臭いのは罪やな
誰かが赦してやらんと
あんまりにもみじめやないか

p.136 アゲゾコ軍団ユルドゥズ大尉

正義もまあ 厄介なもんやで
人間自分が正義や思うたらどんなえげつないことでもやるもんや

p.140 スィナン

 義勇アゲゾコ軍団の蜂起によりアゲゾコは一気にきな臭くなっていく。
 そんな中のマルチナとコースチャの昇進,大公殿下の誕生日パレード,そして転属命令。いつか戦争が終わったらと語る彼らに,物語が最終巻に向けて動き出すのを感じつつ終わる巻。


大砲とスタンプ(9)

 大公国に火花党による革命が…! まさかのアーネチカと監獄仲間の再会。

 大公国は共和国と停戦。必然的に今まで一緒にアゲゾコを抑えていた帝国と敵対することになってしまう。アゲゾコ要塞は革命で混乱中の本国とまともに連絡をとることもできず,泥沼の戦後処理が始まる。

 第82話「来ましたよ そのときが」これは7巻で帰省したマーリャに父が話した言葉を受けている。マルチナにその時が来た。
 最前線となったアゲゾコは地獄の様相を呈し,知恵を総動員して生きるために奔走し,撤退作戦を実行。マルチナは戦友達を国へ帰すため殿を務める決心をする。
 混乱の中で,あの人もこの人も負傷し戦死していく…。

戦友のケツを持つのが俺たち兵站軍だ!
紙の兵隊の晴れ舞台だぞ!

p.139 ボイコ曹長

 リューバ軍曹にキリール,アーネチカにコースチャ。マルチナは戦友たちと最後になるかもしれない別れをかわしていく。

逃げるときはフイッと消えちゃいますかラ
今のうちに仁義切っときますネ

アーネチカ


 累累と続いてゆく悲しい別れと死の場面。その中に垣間見える戦友たちの信頼関係。超大作の映画を見終わったような読後感だった。


 惜しむらくは,最終話(83話)「大砲とスタンプ」が長すぎて,ちょっと駆け足だったこと。もう1巻分くらい物語が長ければ良かったなぁと思う。後日談,一人1コマじゃなくて,一人1ページだったら嬉しかったなぁと思う。
 そう思うほど,キャラクター達を愛し楽しめた作品だったのだ。

後悔?後悔ね
ああするだろう夜中に何度でも飛び起きて自分を許せず苦しむことだろう
だが死んじまったら後悔もできん
せいぜい楽しく後悔するさ

p.118  エロフェーエフ少佐

2022年4月6日追記;
 ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに5度目の再読。
 最終話まで読み終わり,何度読んでも面白い,そして切ない作品だと思った。
 アゲゾコに共和党軍がやってきたあとの街の様子は,ここ最近メディアで見かけるマリウポリとそっくりで,どう表現したら良いか分からない気持ちになった。
 戦争が終わり,生き残った者は各々の人生を新たに紡ぐ。その片鱗を過多にならず少しだけ見せてくれるところが読後感を広げてくれていると思う。
 人の世のよくある物語,そして幾ら語っても語り尽くせない物語だ。



ヨコハマ買い出し紀行

作品データ

  • 表題   ヨコハマ買い出し紀行
  • 著者   芦奈野ひとし(あしなの ひとし)
  • ジャンル 終末もの・心地よい破滅(cosy catastrophe)
  • 初出   『月刊アフタヌーン』(講談社)1994年~2006年
  • 出版社  講談社〈アフタヌーンKC〉
  • アニメ  OVA(1998年)

内容紹介

心地よい終末

 たまにむしょうに読み返したくなる物語だ。

 「終末もの」と聞いて,多くの人が想像するのはどんな世界だろうか。
 核戦争,バイオハザード,宇宙からの侵略,大規模火山活動による急激な気象変動など,様々な破滅の原因が考えられるだろう。
 『ヨコハマ買い出し紀行』の世界でこういったセンセーショナルな出来事が起こったかどうかは定かではない。ただ静かに穏やかに緩やかに海面が上昇し文明が衰退し,人々がいなくなってゆく様子が描かれている。
 そんな世界がこの物語の舞台だ。
 例えるなら,縁側で日光浴をしながらお茶を飲み小鳥を愛でて読書をし穏やかな日々を楽しんでいた老人が,いつのまにかいなくなっていたような…。

 ある人々は,こういう世界のことを「心地よい破滅」(cosy catastrophe)と呼ぶ。
 だが,この言葉は,もともと第二次大戦後の英国SFにおける破滅ものの典型を揶揄して用いられた言葉で,破滅の世界で主人公らは難から逃れ距離をおいて楽しい冒険などを繰り広げる物語のことらしい。本作『ヨコハマ買い出し紀行』をはじめ,『少女終末旅行』『けものフレンズ』など日本のサブカルにおいて「コージー・カタストロフィ」と呼ばれる人気作品とは微妙にニュアンスが異なっているとのことだ。
 が,言葉の意味なんて時と共に移り変わってゆくもの。別にこれらの作品を「cosy catastrophe」と呼んでも良いのではないかと思う。

 『ヨコハマ買い出し紀行』の世界は終末だが心地よいのだ。

ロボットの人

 『ヨコハマ買い出し紀行』の主人公は,ロボットの人,アルファさん。
 彼女が住む世界では,海面が上昇し,人類は緩やかな終わりを迎えようとしている。
 大都会だった以前の横浜は海の下。丘の上に,今のゆったりした横浜の街がある。

 そんな黄昏の世で,アルファさん,初瀬野アルファは,海辺のカフェ「カフェアルファ」を営んで,のんびりと時代を見続け生きている。物語のラスト,14巻の最後でこの時代のことを,アルファさんは下記のように語っている。

「のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間」

 人は少なく,色々なものが静かに記憶の向こうへ消えてゆこうとしている。
 消え去ろうとしている人類に地球は何か思うところがあるのだろうか。世界には少し不思議な現象が起きている。昔からの人の行動の記憶を地面が再生しているかのように,「街灯の木」が生えてきたり,人の気配を発する「白い人型キノコ」が佇んでいたりする。
 そんな世の中で,アルファさんのような「ロボットの人」は,人間と一緒に仕事をし普通に暮らしている。
 アルファさんは,ロボットの人の先駆け「α型」ロボットなのだ。

 彼女はオーナーと一緒に暮らしていた家で,オーナーの留守宅を守りながらカフェを営んでいる。
 カフェに訪れる人と話したり,スクーターに乗って珈琲豆の買い出しに出かけたり,カメラを持ってちょっと遠くまで足を運んでみたり。

 『ヨコハマ買い出し紀行』は,アルファさんと一緒に日常を暮らす物語だ。

読者はきっと「カフェアルファ」の常連客

 『ヨコハマ買い出し紀行』に文字は少ない。
 絵を眺めて,夕凪の時代の空気を感じ,アルファさんと一緒に風に吹かれ,空を見上げながら珈琲を飲むような作品だ。
 4巻の第30話「カフェアルファ」で,カフェアルファを訪れる誰かの視点で書かれた物語がある。ここで話者は「どれだけ間があいても常連になれる店だ」と言うのだが,この言葉はこの物語そのものに思える。
 読者は物語の中の人物がカフェアルファを訪れるように,『ヨコハマ買い出し紀行』を読み返す。何年ぶりに読み返しても,変わらないアルファさんの笑顔に安心し,美味しく珈琲を飲んで夕凪の時代の風に吹かれ,またいつか読み直すだろうと思いながら現実の世界に帰るのだ。


登場人物

 人がいなくなっていく時代なので,登場人物はとても少ない。14巻に及ぶ作品なのに,出てくる人物はこの程度だ。

人間の人
 ・近所に住んでいるガソリンスタンドのおじさん
 ・おじさんの孫と思われるタカヒロ
 ・おじさんの若い頃からの友人で開業医を営む子海石先生
 ・タカヒロと同年代の女の子マッキこと真月
 ・カマスという魚と一緒に旅をする男性アヤセ
 ・入り江で魚を捕って食べて生きている謎の裸の女性ミサゴ
 ・運送会社でココネと一緒に働くシバちゃん
 ・ココネがよく行く「かんぱち辻の茶」のマスター

ロボットの人
 ・三浦半島でカフェアルファを営む初瀬野アルファ
 ・ムサシノの運送会社で働く鷹津ココネ
 ・額縁屋で働く丸子マルコ
 ・飛行機の操縦士ナイ
 ・飛行機ターポンに乗るアルファー室長こと子海石アルファ


カフェアルファの風見魚や背もたれに魚が描かれた椅子が可愛らしい。
おじさんにタカヒロ,子海石先生にミサゴが登場する。

時代の黄昏がこんなにゆったりのんびりと来るものだったなんて
私は多分この黄昏の世をずっと見ていくんだと思う

P.23

お届け物を携えてココネさんが初登場し,アルファさんの世界が少し広がる。
先生とおじさんの若い日の物語とその続編が素敵だ。

先輩がよく俺に見せたのは そんな『旬のもの』の風景だった
時代をよく表し 別に注目されず 2度と見られないもの

P.121

ココネちゃんが暮らすムサシノ高井戸周辺の暮らしや,永遠に空を行く飛行機ターポンのこと。
不思議な水神さまや昔の光をなぞるような植物のこと。
昔このあたりに住んでいたアヤセは,アルファさんのオーナーである初瀬野先生と現在も交流があるらしい。
アルファさんたちは,時代からこぼれ落ちた哀愁をいっぱいに感じて生きてゆく。

最近少し気楽になる方法を見つけました 
あまり気楽になろうとしないことです

P.47

マッキちゃんが初登場。
故郷の上を飛ぶターポンのアルファー室長の想い。
「極限の状況である目標に挑戦する時の人間の感覚さらには限界をこえる時の達成感」のデータをとろうと海の上を走った若き日の子海石先生のこと。
そしてカフェアルファを訪れる誰かの物語。

この海はこんなに気持ちいいのに
もうもどらないものまで、ほしがるのは
ぜいたくでしょうね

P.32

ココネちゃんの久し振りの配達の仕事は「アトリエ丸子」。丸子さん初登場。
アルファさんがココネちゃんの家を訪ねた日。
子海石先生の船が誕生してお別れした日のこと。
カマスたちが飛ぶ日のこと。アルファさんのカメラのこと。
そしてアルファさんの家とおじさん&タカヒロの家の見取り図。

ムサシノの夜は
遠くから来る山のにおいがします

P.56

アルファさんの散歩。
ターポンのアルファー室長が見下ろす下界は悪くなってくけれど,嫌な感じのする世界ではない。
アルファ型ロボットの記録を探すココネちゃん。
人もロボットも存在の奥底に音や光があるのではないかという物語。
タカヒロやマッキと一緒にいるアルファさんは,時々手が届かない時の向こうを見つめているようで切なげだ。

空気と地面の境目
私は空気中につきだした地面の出っぱりになる

P.5

マッキちゃんは タカヒロと
時間も体も いっしょの船に乗ってる
私は みんなの船を岸で見てるだけ
かもしれない

P.38

アルファさんの空を飛ぶ夢のこと。星が綺麗な夜と霜が綺麗な朝。
子海石先生とターポンのアルファー室長の首にお揃いでかかる「見て歩く者」のペンダント。
大切なカメラをなくしてしまった日のこと。
全カラーの第61話「紅の山」は何度も繰り返して見てしまうほど夏の日の夕立と夕焼けが美しい。
そしてやってきた台風のこと。

アルファさんの旅の巻。
巨大な柿や栗,鎌倉の食堂。初めて出会う男性ロボットのナイ。
ナイのカメラとアルファさんのカメラのこと。飛行機に乗るアルファさん。
道の記憶が形になったような街灯の木のこと。
日野から見るムサシノの原の野火のこと。

潮の香りを感じながら長旅を終え,ゆっくりと帰途につくアルファさん。
タカヒロはもうアルファさんより背が高くなっていた。
ココネちゃんと子海石先生が出会った日,えび茶色の髪と目をしたA7M1子海石アルファのこと。
アルファさんのDIYのこと。
カマスと天性の仲良しマッキちゃん。
雨音とアルファさん,缶ビールとアルファさん。

アルファさんは台風で壊れたカフェを延々とコツコツとDIYで修理。
タカヒロと一緒に丘の上で見上げたもの。
アルファさんのことが気になって気に入らない丸子さんのこと。
「かんぱち辻の茶」にてココネ&シバちゃん。ココネが見つけたレコードのこと。
パワーヒマワリが咲いた夏,そしてマッキとカマスの赤ちゃん。

時々 ものすごくこの光が見たくなる
でも たまにでいい

P.113

私たちは―
人が味わういろんな感触が積み重なったもの
アルファさん 私たち人の子なんですよ

P.84

やっと終わったカフェアルファの改装。
そこへやってきた丸子さんとココネちゃん。
水をさがすアルファさんと白いキノコみたいな何か。
6年間の北半球の飛行を終えて南半球へ向かうターポン。
アルファさんもアヤセも子海石先生も各々ターポンを見送る。
ロボットの人だけにわかる沖縄の黒砂糖の味のこと。
西へ発つタカヒロ。

甲州街道を外れ海のようなススキの原へ向かうココネちゃん。
ひだまりの中で思い出すオーナーとの日々。赤いピアスに髪のリボン,そしてオーナーが去った日のこと。
タカヒロを見上げた日。
マッキちゃんはアルファさんのところで何かやってみたいと思う。
流れていく時が,アルファさんは辛そうだ。
町で見かけた丸子さんのこと。

やること多すぎてさ
一生って一回だけじゃ 足りないもんなのよ たぶん
だから せめて ひとつふたつでも なにか…

P.86

いつの間にか,海辺の高台ではなく波打ち際になったカフェアルファ。
おじさんのガソリンスタンドはもう少し高いところにあるらしい。
将来のことを考え始めるマッキ。
倉庫に眠っていた模型飛行機の最後の飛行と,海の向こうの千葉を見ながらのアルファさんの飛行のこと。
流星雨の夜。
水の景色を見下ろす白いものと過ごすアヤセ,街灯が見せる九十九里浜の海岸線。
「アルファさんもでかくなってんだよなあ」と頭を撫でてくれるおじさんの優しさが胸にしみる。

今は 一人じゃない時の方が好き
なんて言うか
自分一人じゃ動かせない所 脳ミソにありますよね

P.155

なぜ 人間の生活の思い出が
こんなに特別あつかい されているんだろう
それとも 私達だけが
頭の中で勝手に 見ているんだろうか

P.128

マッキはムサシノ運送で5年間働き浜松のタカヒロのもとへ。
先生の目と足である「見て、歩き、よろこぶ者」はアルファさんと一緒に未来へ向かう。
「いつかまた」が叶うか分からない海水浴の日のこと。
北航路へ戻ったターポンから見下ろす青い灯。
第30話の続きの第135話「CAFE ALPHA」では,風景が随分と変わった道を久し振りにカフェアルファへ向かう常連さん。たぶんまた10年後もこの人はカフェアルファへ向かい,同じように読者もまたきっとこの本へ帰ると思わされる。
「みんなのふね」はマッキに出会った日に話した船の話の続き。

私の見てきたこと みんなのこと
ずっと 忘れないよ
お祭りのようだった世の中が
ゆっくりとおちついてきた
あのころのこと

P.149

 子海石先生から頂いたペンダントをつけ,オーナーが贈ってくれたカメラを持ち,アルファさんは,ロボットの人たちは,今日も夕凪の時代を見て歩き喜んでいることだろう。