幻日(2024-03-02)

 幻日は意外とその場で気づかず,写真を見て後から気づいて「しまった!」と思うことも多い。
 でもこの朝は空を見た瞬間に気がつくほど明るくはっきり見えていた。

幻日(2024-03-02 06:25)
幻日(2024-03-02 06:25)

 太陽に北側だけ。
 太陽の南22度の位置には,良い感じの六角板状の氷晶がなかったのだろう。
 虹色とまでは言えないが,太陽に近い側が赤くなっているのが分かる。

幻日(2024-03-02 06:26)
幻日(2024-03-02 06:26)

 日の出や日没の頃は大気光学現象に出会いやすい。
 特に雲がある日は要注意で空から目が離せない。

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洋学校教師館(ジェーンズ邸)

 洋学校教師館ジェーンズ邸は熊本県に現存する最古の洋風建築で,1970年に熊本市指定有形文化財に,1971年に熊本県指定重要文化財に指定されている。

ジェーンズ邸(2023-10-25)
ジェーンズ邸(2023-10-25)

熊本洋学校のこと

 明治4(1871)年に建てられた当初は,熊本城内(現在の第一高等学校)にあった。
 熊本藩知事だった細川護久氏が,新時代を担う熊本の少年達に西洋文化を取り入れた学問を施そうと考え,洋学校をつくってジェーンズ氏を招いたのだった。

 リロイ・ランシング・ジェーンズ氏(1837-1909)は熊本洋学校教師として明治4年8月に熊本へやってきて,明治9年に洋学校が閉校になるまでここに住んだ。彼は熊本の若者たちの指導にあたり,また熊本の人達の食生活の改善にも尽力した。
 熊本近代化の父とも言われ,また教え子達を通じて日本の近代に大きな足跡を残した人だった。


転々としたジェーンズ邸の運命

 ジェーンズ氏と家族の邸宅として使用された後,この建物は西南戦争で政府軍本営として使用され,征討大総督の有栖川宮熾仁親王の御宿所に充てられた。
 有栖川宮熾仁親王がここで博愛社(後の日本赤十字社)の設立を許可したことから,日本赤十字社発祥の地としても知られることとなった。

 ジェーンズ邸は明治半ばには当時の熊本県庁の一角に移築され,昭和初期には日赤が譲り受け日赤病院の敷地内に移築。更に1968年に熊本市へ譲渡され,水前寺の動物園跡に移築された。

 流転の歴史をたどったものの,熊本市によって水前寺の地で一般公開され,ジェーンズ邸の運命もようやく落ち着いたように見えた。
 けれど近年は老朽化による傷みが大きな問題となっていた。そんな時に発生したのが2016年の熊本地震。前震で大きなダメージを受けたところに本震が発生し,美しかったジェーンズ邸は,見る影も無いほど完全に倒壊してしまったのだった。

熊本洋学校教師ジェーンズ邸パンフレット
熊本洋学校教師ジェーンズ邸パンフレット

 ネットで全壊したジェーンズ邸の写真を見かけたときの凍り付いたような悲しさは今も忘れない。この惨状ではもうどうにもならない。あの美しい洋館はもう二度と見られないのだと思った。

 だがジェーンズ邸を惜しむ有志たちは,すぐさま行動を起こしていた。
 全壊したジェーンズ邸の残骸をブルーシートで覆って守り,1500点以上の資材を救出。再建に向けて活動を開始されたとのことだ。


熊本地震前のジェーンズ邸

ジェーンズ邸・日赤記念館(2002-11-10)
ジェーンズ邸・日赤記念館(2002-11-10)

 水前寺動物園跡にあった頃のジェーンズ邸。
 ここに掲げられている「日赤記念館」「ジェーンズ邸」の看板は,全壊した瓦礫の中から救出され,再建されたジェーンズ邸で展示されている。

 この書棚の上にあった水差しや,硝子ケースの中に展示されていたティーカップなどはおそらく地震で消失してしまったのだろう。

 2階の廊下の扉にはめられたステンドグラスは,再建後のジェーンズ邸でも同じように再現されていた。


2023年に再建されたジェーンズ邸

ジェーンズ邸(2023-10-25)
ジェーンズ邸(2023-10-25)

 再建されたジェーンズ邸の1階に,再利用できなかった旧ジェーンズ邸を造っていた建材が説明と共に展示されている。
 見覚えのある品々の無残な姿は痛々しい。そして,一つ一つ瓦礫の中から救出しクリーニングされたのだと思うと,地道な作業とそれを続けた努力と愛情に頭が下がる想いだった。

 新しいジェーンズ邸は,以前のジェーンズ邸とは随分と雰囲気が異なる。
 再建にあたり建築間もない頃のジェーンズ邸の写真を参考に外観の色を復元。屋根瓦の配置や鎧戸も建築当初の姿に近づけたとのことだ。

ジェーンズ邸(2023-10-25)
ジェーンズ邸(2023-10-25)
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