光と風と夢

  • 出版社 ‏ : ‎ 学研プラス(新潮文庫)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2019年7月18日
  • 著者 ‏ : ‎ 中島敦

 『山月記』の著者として有名な中島敦(1909〜1942)による小説。
 中島敦が敬愛したスコットランド出身の作家,ロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850〜1894)の日記という形式で書かれている。
 1942年5月の『文學界』に掲載された。


  • 出版社 ‏ : ‎ 青空文庫
  • 発売日 ‏ : ‎ 2012年10月1日
  • 著者 ‏ : ‎ 中島敦

ロバート・ルイス・スティーヴンソンのこと

 ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson, RLS)はスコットランド,エディンバラ出身の作家。『宝島』『ジキル博士とハイド氏』等の著書で知られており,名前を略すときは「RLS」と名乗っていた。

 祖父の代からの灯台技師の家に生まれ,エディンバラ大学で技師を目指すも途中で法科に転科し,弁護士の資格を得る。

 生まれつき病弱で,若い頃に結核を患い,療養のために各地を転々とした。フランスやアメリカ,マルキーズ諸島,パウモトゥ諸島,ギルバート諸島,ハワイ諸島などを経て,最終的にサモア諸島のウポル島に移住し,そこで亡くなった。

 中島敦の『光と風と夢』は,彼の終焉の地であるサモアでの生活を題材とし,彼が書いた日記という体裁をとっている。


「太陽と大地と生物とを愛し、富を軽蔑し、乞う者には与え、白人文明を以て一の大なる偏見と見做し、教育なき・力溢るる人々と共に闊歩し、明るい風と光との中で、労働に汗ばんだ皮膚の下に血液の循環を快く感じ,人に嗤われまいとの懸念を忘れて、真に思う事のみを言い、真に欲する事のみを行う。」之が彼の新しい生活であった。 

『光と風と夢』中島敦 著

中島敦とRLS

 本書の最初のタイトルは『ツシタラの死 ―五河荘日記抄』であったが,出版社の要請により『光と風と夢』に変更されている。
 原題の通り,ツシタラ(物語の語り手)としてサモア人たちに敬愛されたスティヴンスンが,サモアでどんな活動を経た後に死を迎えたかが,彼の日記という設定で書かれている。

 中島敦の作品は教科書で『山月記』を読んだことしかなかったが,大変興味深い作品だった。
 言うまでもなくこの作品を書いたのは中島敦であって,実在したロバート・ルイス・スティーヴンソン本人ではない。この作品の中の「ロバァト・ルゥイス・スティヴンスン」は中島敦によって紡ぎ出された人物なのだ。実在した「ロバート・ルイス・スティーヴンソン」と同一ではないことを,肝に銘じて読まなければならなかった。しかし,実在した当人が書いたわけではないと思うのは難しかった。
 あまりにも活き活きとしていて詳細だったから。

 サモアでの生活やそこで行った創作活動,家族や現地の人々との交流,現地に於ける政治情勢についての感情や行動,欧米に住む友人のことや遠い故郷についての想いなどが事細かく記されており,真に迫っていて息づかいさえ感じられた。これを当人ではない,しかも日本人が書いているなどと信じるのは難しかった。
 当人と会ったこともなく,スコットランドにもサモアにも住んだことがないはずの中島敦が書いているというのが,不思議すぎた。

 中島敦とロバート・ルイス・スティーヴンソンについて調べてみると,約60年の時を隔てて生きた二人だが,驚くほどの共通点を持っていることが分かる。
 病弱であったこと,転地療養で南の島で過ごしたこと,書くことに対する抗えない要求を終生持ち続けていたことなどだ。

 中島敦はRLSのサモアの暮らしに憧れてパラオで暮らし,サモアにてRLSに与えられた名前ツシタラ(物語の語り手)になることを目指していたという。また,中島敦が亡くなった12月4日は,奇しくもRLSがサモアに埋葬された日だったそうで,深い因縁を感じざるを得ない。


美しい描写と貫く哲学

 この作品を読んでみようと思ったきっかけは,美しい文章だった。
 また漢学や儒学に造詣が深い中島敦の教養だった。


一八九〇年十二月×日
 五時起床。美しい鳩色の明方。それが徐々に明るい金色に変ろうとしている。遙か北方、森と街との彼方に、鏡のような海が光る。

此の朝の快さ。空の色の美しさ、深さ、新しさ。今、大いなる沈黙は、ただ遠く太平洋の呟きによって破られるのみ。

『光と風と夢』中島敦

 南の島の朝の新鮮な空気が肌に感じられるような文章ではないか。
 またサモアの習慣や考え方,文学者としての哲学のようなものを随所に見出し,興味深く読んだ。


優れた個人が或る雰囲気の中に在ると、個人としては想像も出来ぬような集団的偏見を有つに至るものだ、という事が、斯うして、狂える群より遠く離れた地位にいると、実に良く解るような気がする。此の地の生活の齎した利益の一つは、ヨーロッパ文明を外部から捉われない眼で観ることを学んだ点だ。 

『光と風と夢』中島敦

 日本人である中島敦なのに,あまりにもしっかりとしたスコットランド人の目を持ってヨーロッパとサモアを見て書いている。驚くべきことだ。
 これこそが物語を書く人(ツシタラ)の力なのだろうと思わされた。


全く、世の中には、「自分にとって此の人生は、もう何度目かの経験だよ。最早自分は人生から学ぶべき何ものも無いよ。」といった顔をした老人が、実に沢山いる。一体どんな老人が此の人生を二度目に生活しているというのだ? どんな高齢者だって、彼の今後の生活は、彼にとって初めての経験に違いないではないか。悟ったような顔をした老人共を、私は(私自身は所謂年寄ではないが、年齢を、死との距離の短かさで計る計算法によれば、決して若くはあるまい。)軽蔑し、嫌悪する。


「生きるとは欲望を感ずることだ。」と、草原を疾駆しながら、馬上、昂然と私は思うた。


私は自分の短い影を見ながら歩いていた。かなり長いこと、歩いた。ふと、妙なことが起った。私が、私に聞いたのだ。俺は誰だと。名前なんか符号に過ぎない。一体、お前は何者だ? この熱帯の白い道に痩せ衰えた影を落して、とぼとぼと歩み行くお前は? 水の如く地上に来り、やがて風の如くに去り行くであろう汝、名無き者は?

『光と風と夢』中島敦

 死に向かって歩くスティヴンスン。
 そして,死へ向かって日々歩いているのは全ての人が同じなのだ。
 物語の原題の通り,最後には死へ向かう心が垣間見られる。生とは,生に執着できるのはどんな状態の心であるか。そして死を迎えられるとはどんな状態であるか。

 そして遂には死んでしまうツシタラ。
 あまりにもあっさりと。

 鳴り響く鐘の低音の余韻のように,低く静かな波が読み終わった後にいつまでも続くような,そんな物語の終わりだった。この美しい文章が奏でる物語は,おそらく何度読んでも飽きることがないだろうと思う。思わずそのまま最初のページに立ち戻り,読み直してしまった。


「星影繁き空の下、静かに我を眠らしめ。楽しく生きし我なれば、楽しく今は死に行かむ」

『光と風と夢』中島敦

 この作品は昭和17年度上半期の芥川賞候補となったが,高く評価した選考員は室生犀星と川端康成の2人みで落選した。川端康成はこの作品が落選したことに大いなる遺憾の意を表したとのことだ。


『光と風と夢』の登場人物

 スティヴンスンと家族以外では,3人の大酋長(王候補)の名前と関係が物語の理解に大きく影響する。


ロバァト・ルゥイス・スティヴンスン
 主人公。「R・L・S」「ツシタラ」とも記される。「ツシタラ」はサモアの言葉で「物語の語り手」を意味し,スティヴンスンは現地の人々からそう呼ばれた。35歳でひどい喀血に襲われた1884年5月から健康地を求めて転々とし,1889年末にサモアにやってきて土地を買った。

ファニイ
 スティヴンスンの妻。スティヴンスンより11歳年上で,物語の最初は42歳。息子(ロイド)と既婚の娘(イソベル)がいる。

ロイド
 ファニイとファニイの前夫(米国人のオスボーン)の息子。物語の最初は25歳。義父のスティヴンスンと暮らすうちに小説を書き始める。

イソベル・ストロング
 ファニイとファニイの前夫の娘。

ヘンリ・シメレ
 スティヴンスンの家の畑の監督。サヴァイイ島の酋長の息子。

ラファエレ
 スティヴンスンの家の家畜係。典型的なサモア人。

ラウペパ
 1881年に王位についた大酋長。アピアに領事を置く英・米・独の三国と労働者の板挟みとなり,王位を追われ島を追われるが,独逸の傀儡の王として島へ帰ってくる。

タマセセ
 1881年に副王に定められた。ラウペパに代わり一時期王になるが,マターファと支持者たちに破れ逃亡した。

マターファ
 タマセセと交替で副王に即くよう定められた。島民のタマセセへの反感から次第に担ぎ上げられ,流れで反逆軍に仕立てられ,望まぬうちに傀儡の王ラウペパと対抗することになる。人格者でスティヴンスンと親しくなる。


古今伝授の間と加勢以多

 水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん),通称「水前寺公園」は,澄んだ阿蘇の伏流水を湛えた池を中心とする回遊式庭園で,昭和4年(1929年)に国の名勝史跡に指定されている。


水前寺成趣園の成り立ち

 始まりは,肥後細川藩の初代藩主,細川忠利(ただとし)公によって建てられた「水前寺御茶屋」だった。
 忠利公は,この地にこんこんと湧き出る清水を大変お気に召したのだった。忠利公が肥後の初代藩主となったのは寛永9年(1632年)のことだ。

 その後,二代藩主の細川光尚(みつなお)公と三代藩主の綱利(つなとし)公による作庭が行われ,寛文11年(1671年)に現在とほぼ同規模の庭園となり,水前寺成趣園と名付けられた。

水前寺成趣園(2022-10-25)
正門前から見た水前寺成趣園(2022-10-25)

古今伝授の間

 水前寺成趣園の正門前,庭園が最も美しく見える場所に建っているのが「古今伝授の間」だ。

 「古今伝授の間」は,約400年前,戦国時代の建物。元々は八条宮智仁(としひと)親王の学問所として京都御所に建っていた。関ヶ原の戦いという天下分け目の戦乱の最中,ここで細川幽斎から八条宮智仁親王に「古今伝授」が伝えられたのだった。

 この「古今伝授の間」は,実際に「古今伝授」が行われた場として唯一現存する建物であり,熊本県の重要文化財に指定されている。

 「古今伝授」とは『古今和歌集』をより深く知り解釈するための奥義のこと。一人から一人にのみ伝えられ,古今集の教養は当時の天皇家および公家社会で大変重視されているものだった。


古今伝授の始まりと幽斎公

 『新古今和歌集』の選者である藤原定家とその父である藤原俊成の時代に全盛期を迎えた歌の家,御子左家は,定家の孫の世代で二条・京極・冷泉の三家に別れた。
 このうち二条家の歌学を受け継いだ東常縁(とうのつねより)が1471年に連歌師の宗祇(そうぎ)に二条家歌学の正統を伝え,これが「古今伝授」の始まりとされている。

 古今伝授は,その後,宗祇から三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に伝えられた。
 三条西家は,実隆→公条(きんえだ)→実枝(さねき)の三代にわたって古今伝授を継承したが,実枝の息子,公国(きんくに)が幼少であったため,実枝は弟子の細川幽斎(※)に「一時預かり」として古今伝授を伝えた。

 幽斎は,決して他人に伝えないことや三条西家に伝え返すことを誓って古今伝授を受け,約束通り三条西公国に古今伝授を伝えようとしたが,公国は早逝。公国の息子である三条西実条(さねえだ)に古今伝授を伝え誓いを果たした。

※ 細川藤孝(1534〜1610)。肥後藩初代藩主・忠利の父。「幽斎」は雅号。

水前寺成趣園(2022-10-25)
古今伝授の間 @水前寺成趣園(2022-10-25)

古今伝授と八条宮智仁親王

 実は,三条西公国が亡くなった後,公国の息子の実枝に古今伝授が行われる以前,古今伝授の後継者問題がもちあがった。

 ここで後継者として選ばれたのが,三条西家ではない八条宮智仁親王だった。智仁親王は後陽成天皇(ごようぜいてんのう,107代,在1586〜1611)の弟宮である。

 ところが,智仁親王が幽斎から古今伝授を受けている最中に関ヶ原の戦いが始まった。
 幽斎は古今伝授を終わらせることなく領地の田辺城に戻り,石田三成の軍勢に囲まれた。田辺城の籠城軍は500,対する石田軍は1万5千。

 幽斎は死を覚悟し,全ての古今伝授の資料と修了証を智仁親王に送り届けた。

 しかし,時の天皇であった後陽成天皇が,幽斎の死と古今伝授の断絶を恐れて勅命を出した。田辺城の囲みを解くように,と。古今伝授はそれほどまでに重要なものだったのだ。
 この勅命により幽斎は命拾いをし,智仁親王への古今伝授を完了させることができた。


智仁親王から御所伝授へ

 古今伝授を受けた智仁親王は,幽斎の古今伝授資料を書き写し,名実ともに古今伝授の継承者となった。

 智仁親王は,後水尾天皇(ごみずのおてんのう,108代,在1611〜1629)に古今伝授を伝え,その後は代々の天皇に古今伝授が伝えられるようになっていったのだった。

水前寺成趣園(2022-10-25)
水前寺成趣園(2022-10-25)

古今伝授の間の熊本移築

 京都御苑の八条宮家(後の桂宮家)に建てられた古今伝授の間は桂宮家によって大切にされ,京都御苑から長岡京に移築され,明治の時代を迎えた。

 そして明治4年(1871年)。
 明治維新の上知令によって桂宮家上地の際,古今伝授の間は幽斎公の細川家に下賜されることとなり,移築のため解体された。その直後の廃藩でいったん人手に渡るなど紆余屈折を経たものの,明治44年に細川家に返却され,大正元年(1912年)に水前寺成趣園への移築が完了した。

 修復工事などで閉鎖していたこともあった古今伝授の間だが,平成22年(2010年)10月から一般公開されている。


「古今伝授の間」にて

古今伝授の間@水前寺成趣園(2022-10-25)
古今伝授の間@水前寺成趣園(2022-10-25)
古今伝授の間@水前寺成趣園(2022-10-25)
古今伝授の間@水前寺成趣園(2022-10-25)

 火橙窓(かとうまど)は中国から伝わった様式で作られた窓。
 この窓の前には書院棚があり,八条宮智仁親王はここに座して学問に励んだという。

加勢以多

 古今伝授の間で,茶菓子と共にお茶をいただくことができる。

 ここで出される「加勢以多」と「十六夜」は両方とも細川家御用達のお菓子メーカー香梅の開発で,古今伝授の間の管理も香梅が行っている。

 「十六夜」は少し陰った十六夜の月をイメージした和菓子。
 卵白の白い生地で,北海道産の手亡豆の餡に卵の黄味を加えた黄味餡を包んだもの。

 「加勢以多」は,細川藩時代からの伝統的な菓子。
 もち粉でできたおぼろ種でマルメロ(現在のものはカリン)の羊羹を挟んで,菓子の表には細川家の家紋「九曜の紋」が焼き付けられている。

古今伝授の間@水前寺成趣園(2022-10-25)
古今伝授の間@水前寺成趣園(2022-10-25)

 加勢以多の名前は,ポルトガル語のカイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロ砂糖漬の箱)が訛ってカセイタになったものと推察されているそうだ。
 当時ヨーロッパから伝来したマルメロ果実を用いたお菓子を,細川忠興(雅号・三斎)公が非常に気に入って茶事に重用し,やがて幕府や京都の公卿へ献上されるようになり,熊本を代表する献上品となった。

 古今伝授の間では加勢以多と十六夜を購入することができる。


水前寺成趣園